作品の条件

  • 一般に美術は「閉じて」おり、それを「開く」ことこそが美術家の「善」というイメージがある。だが、この「開く」という行為は理念的に行われなければならない。即ち、美術を「開く」ことは、ある種の閉じた次元を通過しないと実現しない。
  • 「開く」ためには閉じなければならない。これはけして美術業界内部でだけ通じる論理やジャーゴンを肯定する、という意味ではない。(作品を)制作し経験する条件は、常に外部性を担保されない次元でしかあり得ないのであり、その条件こそが経験をある普遍へと接続するからだ。
  • 作品が「開く」ということ。それはその作品の内的論理が自立しているということであり、その自立とは特定の特殊な関係性の編み目から出発しながらその編み目を何も前提しない、それ自体で前提的な論理へ還元することで可能になる。
  • 言い換えると作品は常に時間順所として限定された文脈から出発するが、その論理は時間順所と関わり無く自立する。そしてその自立は、時間順所として先行する文脈、言い換えればある共同体からは排他的に見える。
  • このとき、作品は時間順所として先行する文脈(共同体)からは「閉じて」いるようにみえざるを得ない。だがこのとき、作品が開いている先は未来なのであり、同時代において「閉じて」いるのは、そこから(未来から)遡行してみれば先行する文脈(共同体)になる。
  • 誰でも参加可能であり、誰でも体験可能であり、誰もが生成し消滅する。そこで特定の個の特権性は踏み台として(あるいはインフラとして)不可視化される、そのような環境は一度「閉じる」ことがなければならない。
  • その「閉じ」を固有名の特権化と見ては何も実現しない。そのような固有名は単に時間順所として先行するにすぎない。事後的にみれば、それは無数の流転する関係の結節点の1つになるのだが、同時代という輪切りの範囲でしか観測しないと古典的な「個人」になってしまう。
  • 本来、原理的な意味においてここ120年くらいの美術が切り開いてきたのはそういう次元なのだ。作家という「固有名」は単なる博物的マークでしかない。その「作品」が切り開いた場こそが問題になる。