非ビエンナーレとしての所沢ビエンナーレ

所沢ビエンナーレ2011が終わってしまった。私は一回見に行ったのだが、かなり面白かったので会期中にもう一回は来たいな、と思っていた。しかしかなわなかった。Twitter上での反応を見ると賛否両論で、私はこの反応自体が今回の所沢ビエンナーレの「成功」を意味していると思う。なぜなら今回の所沢ビエンナーレの特徴は「非ビエンナーレ」「非アートフェスティバル」と言っていい性格を持っていて、いわゆるビエンナーレ的なイメージを持って行けば基本的に肩透かしを喰う確立が高いからだ。では絶賛なのかというとそうではない。面白さを感じた上で、違和感がなくもないので、その点も自分ではっきりさせるためにこの文章を書こうと思う。


一般的に近年国内各所で開かれるアートビエンナーレ、あるいはアートフェスティバルで目論まれている(あるいは必要とされている)のは広義のコミュニケーションだと思う。来場者と作品のコミュニケーション(インタラクティブアート)が行われる。あるいは来場者相互のコミュニケーションを促すような装置としての作品が設置される。もっと言えば、展覧会や作品を作る過程で引き起こされる、会場近隣の住民あるいは運営ボランティアなどと作家のコミュニケーションがフレームアップされたりもする。これは美術を媒介とした人のコミュニケーションだが、作品と会場あるいは空間とのコミュニケーションも往々にして焦点となる。美術館やギャラリーでない場所、いわゆる制度外の場所に作品が設置されるとき、いろいろなコノテーションが含まれたそれらの場所に反応し、活性化(!)する作品が称揚される。


しかし今回の所沢ビエンナーレにはそのような指向を持たない作品が多く見られた。特に観客の介入を必要とせず、また展示場所がかならずしもそこでなくとも成り立つ作品が目についた。一見設置場所に反応しているように見えても、実はその場所を「変数」、つまり作品の諸条件の一部として捉えている作品が多かった。作品自体の論理が周囲から切り離されて独立しているか、あるいは周囲の環境がいかように変わろうともその変化自体を作品の論理として繰り込んでいる。だから、観客からしてみれば、なぜこの場所にわざわざ来てこの作品を見るのか、という文脈的必然性がない、あるいは薄い。結果としてビジュアルなカタルシス、エフェクティブな祝祭性のようなものがほとんど(というか一切)ない。シンボリックな作品もないし(昔の横浜トリエンナーレのバッタとか)、超有名アーティストの招聘(越後妻有のボルタンスキーとか)もない。


率直に行ってアクセスが非常に困難な会場−同じ埼玉県内に住んでいた私は鉄道で行ったが、4回の乗り換えをしてほぼ2時間かかった−に、相応のエネルギーを使って来た観客は、ある種の疎外感を感じるのではないか。極端に言えばこの「ビエンナーレ」は観客がゼロであっても原則的に成立している。作家が自主運営し、そこに作品がそれ自体の論理で自立している。終了である。それらは見られてもいいし、見られなくてもいいのだ。そして展覧会の重要な要素であるカタログ(単に作品写真が載っているのではなく、多くの批評家がテキストを載せている)は、なんと会場で販売されておらず(というか会期中に発刊されず)、事後に予約者に発送される。来場しなければ買えないものでもないだろう。どころか前回までのカタログは今回廉価になって販売されているので、むしろ「行かずに2年後買うのが正解」だと思われてもしかたがない構成である。


これは昨今の「現代アート」、近代美術を解体しようとするコミュニケーション主体のアートから見れば反動的と見える。だが所沢ビエンナーレの最も優れた作品においては、そのような「反動」とは異なる側面が見える。上手い言い方が見つからないのだが、けして「純粋な作品」といったハードな自立を見せるのではなく、外部、あるいは環境、あるいは観客を「条件」としてその論理に組み込みながら、それらに依存することなく作品を成り立たせている、独特のやわらかさのようなものがあったと思うのだ。デッサンにおいて、あるフィギュールはけして一本の輪郭線で確定されない。複数の閉じない線やタッチによって、多数的に、しかし確固とした「それ自体」を成り立たせる。比喩的な表現は危険だが、そのような作品群が、現在のコミュニカティブな「アートフェスティバル」、各種ビエンナーレトリエンナーレに対し批評的に機能していた。所沢ビエンナーレには祭りはなかった。ただ作品があったのだ。


第一会場で最も印象が強かったのが冨井大裕だった。体育館の更衣室の狭い空間に展示されていた。薄い紙片にインクジェット出力のような質感で複数の彩色が施され、それが様々な形に変形される。それらが下駄箱あるいは衣服入れのような多数の木製の箱に置かれている。向かいの台にはそれらの材料になったような、いろいろな色彩が印刷された紙が置いてある。一見ささやかな仕事だが、個々のピースはシャープな形態を持っておりカロ的と言ってもいい。冨井の作品は、例えば先の東京都現代美術館MOTアニュアルの出品作に比べ造形的な作品であり特定のコノテーションから自由であるように見える。しかし、実はその小ささ、ささやかさ、色彩のある種の安っぽさは会場の元学校体育館と呼応している。超小学生、といった佇まいを見せていた。作家本来の手の知性が見て取れる。


遠藤利克の作品はプールに焼けた木材でフレームを仮構するものだが、流石に洗練されている。マニエリスティックではないかと見られる可能性はあるかもしれないが(その側面は確かにある)、その細さ、軽さ、空に伸びる上昇感覚は新鮮に見えた。ここで作品はむしろあからさまに「場」と一体化している。切り取られる所沢の夏の空こそがフレームアップされると言っていい。作品の「作品性」が問われてもいいくらいのものだが、このような軽快さは私の知る狭い範囲での遠藤利克という作家にはなかったように思う。常に燃えたマテリアルの存在感で押すマッチョな作家という偏見を拭うことができた。


山路紘子の絵画作品は、単純に絵画として悪くないと思う。薄く透明度のある色彩が、明確な輪郭を持ちながら中くらいのキャンバスに複数置かれている。具象とも抽象ともつかない画面だが、迷いなく置かれた色面はにごることなく構成され、ある種のフェノメナルな広がりを持っている(ちょっと実寸より大きく見える)。ややグラフィカルな装飾性を感じるが、その点も含めて非常に上手い画家だ。ただし、会場の選択(私が訪れたときは光があまりといえばあまりだった)も含めて、これならば明らかに普通のギャラリーもしくは美術館で見た方が良かったように思う。今回の参加がはっきり「損」だった事が明快になった作家ではないか。


第二会場ではグループ「ミルク倉庫」の一員として参加していた中山雄一朗がダントツで素晴らしかった。中山の作品は2007年に四谷アートステュディウムで第2回マエストロ・グワント大賞受賞個展を見たとき以来なのだが(なかなか作品発表がなく心配していたが、所沢ビエンナーレのプロフィールを見ると活動していたようだ)、今回も原則的に作品の構造は変わらなかった。木材と粘土が棕櫚ひもあるいはボルトで組み合わされているのだが、それらのマテリアルと空間の関係が恐ろしく明快なのだ。恐らくまったくおなじ形態を大理石や金属で作っても、中山の作品はあまり面白くない。それは素材の力に作品が依存しているという話ではない(というか、あの木材とただの粘土には大理石や鉄のような素材としての求心力はない)。木材、粘土、棕櫚なわ、ボルトといった素材の質が作品の関数としてあり、同様にその造形と空間が関数としてある。その相互関係がこれしかない、といえる強さで提示されている。そして、設置場所の給食工場および実際に台座として使った器具も、同様に関数として取り扱っている。今回のビエンナーレの可能性の中心を射抜いたものだと思う。


鶴崎いづみはいろいろな植物を会場に持ち込んでインスタレーションのようにみせていたが、果たしてあれをインスタレーションと言っていいのかどうか疑問が湧く。会場二階に行く階段の踊り場に、棕櫚の幹のようなものがただ「転がって」いたのだが、私はそれを見てどこかおぞましい感じ、有体に言えば死体が転がっているような感覚を持った。この作家が「生もの」を扱っていることには、他の同様の作家とは異なった理由があると思う。それは恐らくつなげてはいけないものを繋げる契機なのであり、そのような契機は、場所というより鶴崎による「構成」(それがただ置くだけのことだとしても)によって開始されている。窓のところにあった作品はあまり成功していないように思ったが、とにかく階段途中の作品はインパクトがあった。


中崎透は搬入口のような場所に膨大な会場(給食工場)の備品を集積させ、迷路あるいは一種の要塞、あるいはバリケードのようなものを構築していた。中から時折奇妙な声あるいは物音が聞こえる。今回の所沢ビエンナーレは全体に静かで安定した作品が多かったが、そこで最も不安定、というか不穏な空間を作り出していたのが中崎だったと思う。攻撃的にも見えたが、内閉的でもある。はたしてこれが「作品」といえるのかどうか危ういが、しかしもしこれがはっきりとした「作品」になってしまったら、ここで感じられた不安定さ、不穏さは掻き消えてしまうだろう。弱いようで強いというか、ある弱さを別の強さで支えている印象もあったが、少々優等生的な作家のラインナップの中で目立っていた。


岡崎乾二郎の作品は、自筆の原稿用紙が一室のつくえの上に、浅い木箱に入れてあり、左手にもう一つ同じ木箱がおいてあるというもの。指示のようなものは一切ないが、恐らく右手の原稿を読んで左手の箱に移す人が多いだろう。私はそのようにせず、一番上の原稿だけ触れずに読んで眺めていた。必ずしも読みやすいといえない岡崎の手書きの文章は奇妙なリズムで、ここでは閉じられた部屋の中で手書き文字を黙読するときに発生する、独特な時間が流れる。少なくとも私はベタに文章を一枚だけ読んだのだが、それにとどめたのは、ごく自然に人を導くこの作品の「構造」がなんとなく嫌だったからに他ならない。我々はそこで自由に振舞ってもいい。だが暗にここには命令が示されていて、命令の存在(内容ではない)に気づかないでいることはほぼ無理で、だとするなら何をしようとも作家の意に沿わない振る舞いは「命令に逸脱する行為」に自動的になる。ルールが暗黙のうちに設定され、そのルールは観客を試している。当たり前だが優れた作品は観客を試す。だがそれは試そうとして試すのではなく、作品の論理を展開していく中でそういう場面が必然的に招来されるのであって、初手から観客を試すことが前景化しているのは違和感がある。先の言葉をひっくり返せば、観客を試す作品が優れた作品とはいえない。


利部志穂の作品は失敗していたと思う。私は2008年に京橋のなびす画廊で利部の作品を見たのだが、そのときは素晴らしいと思った(参考:id:eyck:20080731)。その時の感触からすると、この作家がこのような「空振り」をするのは意外だった。利部の作品の重要な魅力に、重力に対する対等性があったと思う。それはけして重力に対して自由である、あるいは自由であるかのように振舞う、ということではない。重力の存在をまず認識し、対象化し、作品がそれに正対することで、利部の作品には一定の緊張感が生まれていたと思う。今回、利部はその点をまったく考えていない(階段状に積んだ金属かごに風船をいくらつけても重力を対象化したことにならない)。ということは今回の作品は、後におこなわれたというパフォーマンスの舞台としてだけ考案されたのだろうか。私がまったくこの作品の美点をみつけられずにいたとき、連れて行った3歳の長男が「音が鳴りそうな気がするんだよ」と急に言って、その時すこしだけこの作品のよさが垣間見えた気がしたが、しかし、やはりあの重力に「自然に」頼った構造はつまらなかった。


以上だが、全体にポジティブに見えた事を前提として、気になった点を挙げておく。優れた作品があるのは魅力なのだが、どこかそれらの作品たちの優れ方、魅力の粒度のようなものがそろいすぎているような感じなのだ。ある一定のハードルを越えたところで寄り集まってしまっていると言ってもいい。その粒のそろい方が、観客を前提するとかしないとか言う水準とは異なるレベルで「うちに閉じこもっている」印象を与える。規模や人数の問題でもない。開催地の問題ではない。恐らくは作品の論理の持つテクスチャーの問題である。こういう事から自由だったのは中崎透や利部志穂、山路紘子、遠藤利克といった面々だと思うが、遠藤以外の作家の作品が十全な成功を収めているといいがたく、それが全体の印象を不活性にしている。とはいえ、やはり意欲的な展覧会になっていたのではないだろうか。