世界を豊かにする抽象・小林達也「モトメヨ ステヨ」展

那須の殻々工房で小林達也「モトメヨ ステヨ」展。絵を描く気持ちよさというのがある。別に難しい話ではなくて、感覚としては子どもの泥遊びとか水遊びに近い。ひんやりとした、あるいは生暖かい水溶性のものを、手に一杯つけて紙や壁に塗りつけていく行為。誰でも、別に絵描きでなくても大抵の人が記憶の古い場所に保ち続けている感覚は、ふとした弾みさえあれば容易に思い出されるはずだ。それは視覚的な光景の再現というよりは体の感覚の思い出しのようなもので、高いところからジャンプした経験とか、プールで泳いだことを覚えているとかと同類のものだと思える。ただ、絵の難しいところは、「気持ちよく」描いた画面が、必ずしもそれを見た人の「気持ちよい感覚」を呼び覚ますとは限らない点で、むしろ実際にはその反対に終わることが多い。子どもの絵を見ればよくわかるが、当人が楽しく描いた、しかも恐らく身体感覚を十全に開放したのだろうと思える痕跡であっても、というかそういう時こそ、画面は単に混濁するか単調な反復になるかしてしまう。最悪なのは、そういった身体感覚の開放を「印象付けようとして」組織された画面だが、こうなるともう画面は空っぽの飾りだけになってしまう。


小林達也という画家の不思議なところは、恐らくこの「描く喜び」が、まっすぐに画面の組織の複雑さと一体化していて、いくら緻密に画面を作っていっても少しも「描く喜び」が屈折せずむしろ緻密さそのものに喜びが充填されていくし、反対にいかにも大雑把に、それこそ子どもっぽいとしか見えない「絵の具をぶっちゃけた」痕跡を生々しく画面に残していても、それが作品においては間然と他の要素と絡まりあい、高度な組みあわせの一部としてぴたりと正確無比なまでに「絵画」として成り立ってしまう事だと思う。画家が技術を身につけるのはそんなに難しいことではない。いかに不器用な人であれ、十年も描き続けていれば一定の技術はむしろ嫌でも身についてしまう。問題は、そのような技術が、絵を描くエネルギーと不可分に連携しそのエネルギーを生み出し純化できるような体系として身につくか、ということであって、技術それ単体だけを振り回していれば確実にエネルギー自体は消える。


今回見ることのできた作品は、大小あわせて14点ほどあったのだけれども、どれもパネルや板に布や寒冷紗が張りこめられ、カゼインテンペラとクレヨンなどで描画されている。パピエ・コレと言ってもいいかもしれない。画面は意外なほどの凹凸をもち、一部は後から削られているなどしてやや激しいマチエールになっている。張り込まれた布や寒冷紗はそのヘリが画面からはみ出したりしており、全体にマテリアルが強調されている。そういう形式的な面からいえば、アンフォルメル絵画に近いといえなくもないのだけれど、実際の作品からは、アンフォルメル的な「暗さ」はまったく見出せない。アンフォルメル的「暗さ」とは、ごく単純に言えば近代的なものへの深いあきらめ、あるいは絶望と言える(これは先日聴講したArt Traceの松浦寿夫氏の講義で語られていた)。小林達也という作家には「暗さ」、何かを否定するという要素がまったくない。見事なくらいに、画面の隅々まで明るい。それは色彩の彩度の高さ、乾燥のコントロールから来る構築性から生み出されているが、そういう意味では、色の関係によって画面を作っていくマチスあるいはボナールのような系譜に近いのではないだろうか。作品の全てが光を発しているかのような、輝く絵画。


抽象絵画はたとえまったく外部を参照していなくても、どこか外の世界と繋がってしまうことがある。青い色が使われていれば、どうしても水や青空を想起させる。筆のタッチが見えていれば、それを置いた画家の身体の刻印として見えてくる。水平の線があれば否応なく地平線として機能してしまうし、垂直線があれば樹木や建物、あるいは地図の道路などを連想してしまう。つまり、抽象絵画が、いかに抽象度を高めようと「何か」に見えてしまう。そのような形で、一見貧しい言葉しか持たない抽象絵画は、裏側で世界の豊かさを活用していたりする。小林達也の作品も、そのカゼインテンペラの乾燥した表面と寒冷紗と布の重なり合いなどから、会場のある那須の街道に積もる木の葉を踏んでいく感覚を想起させるし、紙を一度張って剥がした跡とかは古い住居の壁や書きふるしたノートなどを連想させる。


だけれども、小林の作品には決定的に「描く喜び」が純化された形で横溢している。その強さは、まったく絵の外側の「豊かさ」を「利用」するような在り方を作品にもたらさない。反対に小林の絵画を見た後でおきる出来事は、会場を出た後に見える、紅葉した那須の芳醇な自然が、むしろ小林の作品のように見えてくるという事なのだ。枯葉は小林のカゼインテンペラに変貌し、晩秋の西日に輝く木立は小林のクレヨンのストロークとなり、僅かに雪をかぶった那須岳は小林の削り取ったマチエールになる。世界は、小林の作品の豊かさによってより豊かになる。ここには完全な形での「絵画」と「世界」の、対等な関係が成り立っている。絵を描く喜びは、それだけで世界にギフトをもたらすことができる。そのような確信を与えることのできる作品は稀有だろうし、無論そのような作品を淡々と生み出し続ける作家も稀有だと思う。会期は終了している。