アートプログラム青梅・絵と文字と記号の重なり或いは絵画以外の拒否

アートプログラム青梅2011「山川の間で」展、青梅市立美術館の展示室でO JUNの作品をほとんど初めて見た。名前だけは聞いたことがあった作家なのだけれども、今まで作品を見る機会がなかった。ボード状になった紙に色鉛筆やクレヨン・パステルなどで描かれている。柳田國男の「山の人生」をプレテキストにしているようだ。おおよそ正方形の画面が、上段と下段に、互い違いになるように合計12枚張られている。それぞれに「山の人生 第一日」とか「山の人生 ヤママギレ」といったタイトルがつけられている。線で山の形状を示すような数本の曲線があり、その左脇に漫画の吹き出しのような形象があったり、谷の形象がやはり数本の曲線で示され、異なる色で少しずらして重ねられたりしている


絵でも文字でも記号でもないものを、私たちは描くことができるだろうか。僕には、O JUNはそのような困難な問いを、どこか遊びに興じる小学生のように軽快に解いているように見える(知的な手つきでありながら、その所作には線を引き色を塗ることの、原初的な喜びが残っていると思う)。例えば子どもの頃、夏休みに「絵日記」のようなものを描かされた/書かされた記憶が、僕にはあったかなかったかちょっと判然としないのだけれども(わずかに、それらしいものの記憶はなくはないのだが…)、それはきっと、下半分にその日あった出来事を文字で書き、上半分にその内容を示すような絵を描く形式だっただろう。文字と絵は物語と挿絵の関係でもあり、図像とキャプションの関係でもある。そこには明白な出来事の「分割」がある。経験の経時的な側面を切り出し事実を順番に記述していく文字と、それを画面上に配置しながら一挙に見ることができる視覚的なイメージ。しかし、良く見てみれば文字は線の組み合わせでできた図像であり、絵は色彩と線を組み合わせてできた記号とも見える。いかにも明瞭に役割分担された「文字」と「絵」は、仔細に見れば必ずしも相反するものではないだろう。


O JUNの作品は、その形象を絵と見られることも、記号と見られることも、文字と見られることも微妙に回避している。明らかに「絵」である部分もあるのだが、それは12点中2点だけ、しかも周囲から「絵」の部分だけを切り離す波状の線によって「額装」された状態で提示されている。ということは、それ以外の箇所あるいは作品は、自動的に「単なる絵」ではないことになる。ここで先の問いを反転させてみれば、O JUNの作品で行われていることはむしろ「絵でも文字でも記号でもあるもの」を描く/書くことなのかもしれない。文字を絵のように描くことは可能であり、絵を文字のように配置することは可能だ(象形文字を見よ)。だとするなら、絵日記は、絵と日記、ではなく、まさに「絵日記」として描きうる/書きうるのかもしれない。O JUNの「山の人生」は、絵と文字と記号が重なり合いながら、まさに重ねられているそのことによって、そのどれでもないイメージというものを描く/書くことに成功しているのだと思う。


同じ会場の別の展示室にあった古谷利裕の作品は、O JUNの作品と比べて見たとき、堂々と「絵画」の形式をてらいなく展開していたと思う。いや、O JUNと比較するまでもなく、古谷本人の2010年の吉祥寺の古書店「百年」店内でのドローイングとアクリル絵画の展示、あるいは同年「零のゼロ」展での大小さまざまな作品の、若干インスタレーション的とも見える展示に比べても、その「タブロー化」に僕は驚いた。クレヨンによるドローイングも2点あったとはいえ、一番右隅に展示されていて明らかに傍らに置かれていたのだし、大型のパネルあるいはキャンバスに、油絵の具で描かれた作品が四点、横一列に整然と並んでいる様は、この作家がここしばらく見せていた、ドローイングとペインティングの間の連続性、あるいは一見雑多な展示から導かれてきた断片性・散乱性から一線を画し、はっきりと「絵画作品」という形式を前面に押し出しているように思う。公立の美術館での展示、という事もこの性格を強化しているだろう。


しかし展示の形式はあくまで個別の作品から要請されている。例えば合板のパネルまたは麻布のキャンバスに下地を施すことなく置かれた油絵の具は、恐らく油染みを避けるために十分に油抜きされ、硬く練られている。この、簡単には伸びずに、力を込めて定着させられた絵の具は、くっきりとした厚みをもち、何度も粘度の抵抗を押していった痕跡を残してその「強さ」を見るものに感じさせる。それは硬い絵の具の強さと、それを押し付けていく画家の身体の強さの拮抗の結果であり、この強さが、絵の具が置かれないパネルの面あるいはぴんと張られた麻布の抵抗感とも拮抗する。コーラルピンクのような微妙な中間色も、緑、青、黄色、水色といったほかの色彩と緊張関係を保ち、素材、色彩、タッチ、それらが相互に引き合いながら絵画空間、としか言いようのないものを立ち上げている。クレヨンのドローイングの「ゆるさ」と比べれば明らかに「タブロー」の張力の強さは明瞭で、この「強さ」には一種の自信が感じとれる。


恐らく最も成功してい作品は特権的に「Plants」と題された作品だろう。この作品は多数の絵の具の色斑から成るが、それは横長の画面におおよそ真ん中から左右の二群にわかれ、その両者を繋ぐように一本の細長い線が中欧付近やや上を右肩上がりに延びている。この作品では4点のタブロー中最も色斑の数が多い。結果それらを相互に結ぶ関係の数も飛躍的に多いわけだが、その複雑さはむしろ迷いなく配置され緻密に組みあがり、他にない抽象度に達していると思える。他の3点は「P/G (plants/geography)」とされているが、例えば向かって左端の作品は、大きな色面が上下2群に分けられ間に横に隙間があく。タイトルからして水平線あるいは地面を想起させる隙間だが、ここで画面の張力が切断され、隙間が若干「穴」になっているように思われた。とはいえ恐らく「geography」の言葉が入った作品たちは恐らく作家にとって新しい模索の過程にあるのだろう。「Plants」がある種の洗練を見せていることから考えれば、むしろ次回の展示に興味が湧いた。