弱い弱さと強い弱さの境界−「行為の触覚 反復の思考」展−

2012年3月7日から12日まで、上野の森美術館で開催された「行為の触覚 反復の思考」展は、ある「弱さ」において特徴づけられる展覧会だった。この「弱さ」には積極性・消極性の両面が感じとれるけれども、美術館という場で作家が企画者となり展覧会を組織したという点である兆候を示す内容でもあり、興味深く見た。


最初に置かれる諏訪未知はこの展覧会の性格をよく表していた。キャンバスにアクリルで描かれた絵画、及び壁面に設置された棚状の板に立てかけられたアクリル板、また床面にキャスターのついた板を散乱したように設置している。絵画はキャンバスを斜めに走るストライプを青紫とグレーの二色によって描いたものがまったく同じフォーマットで10点設置しており、またボトルのシルエットが青紫地にやはりグレーで斜めに描かれたものが2点、右の作品を拡大したような構図で左の作品が描かれる。たとえばストライプの作品において、一見同じような作品であっても、その塗りがかなりフラットで塗り込められたような感触ものから、キャンバスの目が感じ取れるような絵の具が「引いた」感のあるものまで、仔細にみれば差異が感じ取れる。しかし、このようなミニマルな反復的作品において微細な差を発見させるといった展開はありふれている。ここで諏訪が見せているものを特徴付けるのはむしろ作品としては明らかに半端な、壁面に設置された棚板とそこに立てかけられるアクリル板および床に置かれたキャスター付きの板だ。会場が美術館であるにも関わらず、木材やアクリルといった作品以前の素材が設置されることで空間全体にアトリエ的な空気が漂うことが注意をひいた。


近代絵画はその特質上、たとえ完成していても「次の一筆」の可能性を原理的に排除できない。諏訪の作品は一見個別のピースとしては工芸的に仕上がっておりそれ以上手が入る可能性はないが、「作品列」としては常に次の一枚が足される可能性を孕む。ここで近代絵画のタッチは個々の作品に分散しており、アクリルや木材が散らばった会場では、反復するストライプの作品は次の一枚が生成されている、その途中の段階としてオープンエンドに、つまりアトリエで制作途上であるかのように見えてくる。


ミニマリズムが明らかにした反復的作品の特質に、それがどこで終わっているのかの根拠がないことが挙げられる。この点は林道郎が既に指摘している。すなわち、たとえばカール・アンドレの《Liver》を見れば、その床に置かれたレンガの列が「そこ」で終わっていることの根拠はない。常に次のレンガが置かれる可能性は残されている。ただし、ミニマリズムにおける反復が、林の言うように無限を孕むもの、つまり非人間的な絶対性を召喚するのに比べ、諏訪の作品が招来するのはあくまで諏訪自身の身体、つまり作り続ける作家の残像が呼び込まれる。この諏訪の展示が「行為の触覚 反復の思考」展のいわば看板になっている。


ほかの作家も簡単に触れよう。今野健太の作品は大理石による彫刻だが、ここでは伝統的な素材による一見保守的な人物像が、ダブルイメージとして示される。《揮発する肖像No.6》と題された首像は、顔の部分に目の下に、より薄いイメージでもうひと組目がついている。《野性味のある顔》では胸像の首から上の部分がプリミティブな原始彫刻のトルソになっており、顔と体が二重化されている。《肉体のグラデーション》では男性の全身像がしかし首から下で男女二つの身体に分岐している。ここでの今野の彫刻は明快な形態ではなく、一つの像が複数の有り様の変性・生成過程の途中で仮止めされているような有り様を示す。


臼井拓郎の作品はテーブル上に各種工具が並べられ、それらが無くなったり戻ったりするように明滅する映像がモニタに映し出される。また、パズル状に五十音が書かれた正方形が並べられ、その板状の五十音のピースが動いてゆく様子も映し出される。会場には実際に机と椅子が4脚置かれ、机上には映像に映る五十音のパズルとアルファベットのパズルが置かれ、操作可能な状態に置かれる。傍らには何かを宙吊りにするような木材による器具が置かれている。ここで例えばアルファベットや五十音のパズルは常に何らかの有意味な単語を産み出す前の状態として提示されており、工具が机上から無くなったり戻ったりする様子は画面の外で何かが作られている、そのプロセスをネガのように示している。


烏山秀直の作品は半透明のシルクオーガンジーを木枠に張った上に、アクリルやエナメルといった素材で装飾的な幾何学模様を描く。遠くから見た時その整然としたドット状の素材の配置はシンプルグリッド構造の反復だが、見え方としては無限に反復可能なコッホ曲線のようでもある。同時にそれはネイルアートのような、女性の身体を飾るものと近しい素材で構成されており、半透明の基底材は木枠存在を示すというよりも身体的、皮膚的な存在感を示す。


企画者でもある石井琢郎は高さのないやや平板な御影石を会場に多数置いている。この御影石はところどころに穴があいており、設置している下面のかなりの部分がくり抜かれ薄い皮膚状になっている。見た目の岩石のボリュームから想定される質量と、実際の質量に大きな乖離があり、その構造を知る前では十分以上の強度を予測するにも関わらず、中空であることを知ったあとではたとえば上に乗った時に薄い石が重量を支えきれず陥没するのではないかという想像が働く。石井もまた諏訪と同じように、美術館の内部を半ば石切場のようなアトリエまたは作業場のように見せることに成功しており、諏訪で始められた美術館会場の“かっこ”が、石井によって閉じられる。このかっこの中は完成作品を展示する公的美術館でありながらいまだに作品が作られ、手を入れられ、廃棄され、創造されるアトリエであり工具や素材が散らかる仕事場であり作家の労働する身体の運動が幽霊的に浮かび上がるスクリーンでもある。


石井はこの展覧会に際し次のステートメントを出している

“現代”美術として表現された作品は、その直後から過去となる。
そして、作り手である我々は皆、常にその反復のなかに身を置いている。
現在は、我々が作品を作り続けること自体困難な社会状況であり、今後それはより難しくなって行くと思われる。しかし、この様な状況だからこそ、美術の可能性とその意義を再考し、「なぜつくるのか」という根本的な問いへ立返ることは、我々作り手にとって重要なことではないだろうか。
今回、上野の森美術館で「反復」をテーマに展覧会を試みるが、ここで言う「反復」とは、過去にも多く問われてきた言葉のように、差異をあらわにすることを目的とするのでは無い。五感や無意識を持つ身体の、いわば行為における触覚をきっかけに、表現を実現させる手段として機能している。そして作品に関わるイメージや感覚は、それらの行為のなかでより具体性を帯び、変化していく。つまり「反復」は、未知なるものを生み出すための思考と行為といえる。
「反復」を意図的に取入れ制作する5人の作家による本展では、それぞれの”行為の触覚”から生まれる”反復の思考”を作品とともに明らかにし、現代における「なぜ」という問いへの答え、その可能性の片鱗を浮かび上がらせることが出来ればと考えている。
(「行為の触覚 反復の思考」ちらしより。http://taku.6.ql.bz/contents.html


ここで語られる「行為」とは上記のような展示を踏まえれば制作行為であり、反復とは繰り返され持続される制作過程だと言っていい。かつてフルクサスポップアートが高度消費社会を特徴付ける、身体性を廃した工業製品的「反復」、マルチプルを手法としたのに比べ、この展覧会の会場には「反復」に明らかに作家的身体が重ねられている。「作品を作り続けること自体が困難な社会状況」とはいわば経済的な地盤沈下の中で、その多くがプレカリアートとして生きていかざるを得ない多くの作家、作品生産者としての美術家の環境のことだと言っていいが、そのような「困難」な現場を美術館の中に、声高ではなくむしろそっと挿入して見せた石井の意図は了解される。かつて語られたポスト工業社会、消費のユートピアを前提にした反復ではない、いわば生き残るための最小限の持続的行為としての反復。


砂漠の植物や栄養素のまったくない深海・鉱物の中で生きるバクテリアのようにサバイブしてゆく作家たちの制作から、作品はどのように生まれているだろう。簡単にいえば生産現場の中で印のように刻印される作業の感覚からだろう。例えば諏訪の作品に見られるわずかな塗りむらや塗り残し、といった箇所に単調である分、というかその単調さに比例してある種の作家の息づかいが立ち上がる。それはこの展覧会が実に壊れ易い、繊細な作品で構成されているところから逆説的に強く主張されている。未分化な生成途中のグロテクスさを大理石に刻印する今野、何かが作り続けられながらそのモノ自体は写されず使われている工具の明滅や組み合わされ言葉になる前の文字を見せる臼井、破れやすく透けて見えるオーガンジーに反復される装飾的幾何学模様を連ねる烏山、一見重く強固な石材がしかし中空に削られ見た目のイメージに反して脆く軽くされている石井。ここにはいわば息を潜めつつ繊細で注意力を要する作業を「反復」しつつ、その所作の中で自らの作家としての「生」は確保し続けようという欲望が読み取れる。美術館をアトリエにしてみせる、その反転的意図も含めて示されるのはむしろ強烈な「作家」であることへの執念と言っていい。


このことを肯定的に見るかそうでないかがこの展覧会への態度を決定するだろう。筆者が冒頭で述べた「弱さ」には、ここまで書いた積極性の他に、素朴な「弱さ」も含まれている。端的に言って、そこまで厳しい環境下で、尚彼らが「作家」であろうとする、その理由が見えない。作り続けるから作家であり、だからこそ作家は作り続けるのだというトートロジー以上のものは見いだせない。持続する制作はむしろルーチンであって、なぜそれが持続「してしまう」のか、むしろそこへの分析が問題ではないのか。そこには美術館というわかりやすい「制度」以上の根深い制度、つまり芸術家という制度が近代以降長らく横たわっているのであって、各作家個人はそのような制度に自動運転させられている(自動反復させられている)。ミニマリズムやポップのアーティスト達が試みた非人間的反復とは、まさにそのような「作家」という制度を解体する試みだったはずであり、そのようなコンテキストを持った「反復」に改めて作家的身体性を再導入するのであれば、相応な理由を必要とする筈だ。この点において「行為の触覚 反復の思考」展は構造的「弱点」を抱えた展覧会でもあったと言える。


だが、全体の展覧会のクオリティとして、「行為の触覚 反復の思考」展はコンセプトの提示とそれに沿った作家の選択、各作品の完成度、社会性への扉の開き方、メッセージの明瞭さという意味で近年の国内美術館での同時代作家による企画展の水準を超えている。今や多くの美術館でそもそもコマーシャルでない同時代作家の展覧会は開催が難しく、いくつか行われている試みにしてもテーマ設定や作家選択が曖昧なものが目立っている。そんな中で、作家自身による企画展がこのレベルで行われたことは積極的に考えていいだろう。問題は「作家の自主企画」という言葉が弱体化した美術館のアリバイ工作に収まってしまうのではなく、作家というものの基盤を再度疑問に付す程度の「強さ」−それは当然「激しい」作品や「大きな」作品といったリテラルな強さとは対極の「強さ」である筈だが−に基づけるかということだろう。