物理的強度に支えられない彫刻の質の跳躍・エアヴィン・レーゲル展

ヒノギャラリーでのエアヴィン・レーゲル展で見た彫刻作品には、少し心が惹かれた。少し、というところが大事なのかもしれない。置かれていた彫刻は新奇だというわけでもないし、極端に大きいとか小さいとか、何か珍しい技術が使われているわけでもない。見ようによっては保守的な、どうということのない作品なのかもしれない。しかし、見た瞬間から、いくつかの作品(それは石膏が使われた作品が主なのだけれども)には奇妙な魅力が感じられて、その感覚が自分の中に残る。こういう繊細な魅力というものは言葉にしづらい。人は作品を見た時の心の動きの「大きさや量」に、ついつい作品の質を比例させて考えてしまう。むろんこれは錯誤だ。とてもびっくりしたり、大きな感動を与えた作品の「質」がその心の動きの大きさに見合って高いとは限らない。ささやかな印象の作品の「質」が、やはり同じように「ささやか」な程度であるとは限らない。エアヴィン・レーゲルの作品には、そのささやかさの中に貴重なものが含まれていると思う。


会場入ってすぐ左手の壁にかけられた《untitle》という作品−もっともすべての作品が《untitle》なのだけれども−は複数の部分が接合している。横に広く、下がいくつかの直線で円弧を描くようになっている木の板と、細長く、上方へ向けて円弧を描く木材が両端で接している。全体のシルエットは木の葉のようでも、舟のシルエットのようでもあるが、上方の円弧を描く木材と下部の木材の間には隙間があり、また上部の木材には厚みがかなりあって、下部の板状の木材の上に重ねられた右端ではより手前に出ている。上部の木材にはぎざぎざとした細かい溝がついている。全体に白く塗装されているがその塗装は不均一で、溶かれた石膏が塗られたようだ。下部の木材の面上は白が薄く、透けて木材の表面が感じられる。対して上部の木材はかなり厚く白が塗られている。右下に石膏が垂れたような痕跡がある。とくに木材の接合部は厚く四角く別の接合材が覆われているようなマチエールが見られる。


エアヴィン・レーゲルの作品の特徴として、それが常に複合体である、という点があげられるだろう。同じ会場に置かれていた、いくつかのブロンズで鋳造された作品、また他にもある石膏の作品も、必ずいくつかの部位が接合してひとつの作品になっている。奥の部屋にあるブロンズの作品も、一見一体性が強く見えるが、まず床に接する所に板状の台があり、背の高い帆のような三角の板状の部分と、その縁が細く伸びて上方を指し示す棒状の部分が組み合わさっている(植物の実の皮だけが細く伸びたようだ)。また、表面が粗く、「磨きあげられていない」ことも重要に思える。エアヴィン・レーゲルの作品は常にざっくりと、即興で組み合わされそこに投げ置かれているように見える。丁寧に工芸的に仕上げられていないこと。また、空間に対して作品が近い、あるいは直接接していること。多くの作品に台座がない、あるいは上記の作品のように薄い板だけで接している作品が主で、一点だけ台に乗せられている作品があるが、おおよそそれらは日常的なものからの切り離し、「作品」という固い防護−ガラスケースや立派な台座、触れがたい磨き上げられた面を欠いている。


まるで作業場にある素材や断片がそのままごろりと置かれているようにある/しかし、それらは必ず何かと組み合わされている=つまり、確実にある意図や契機(チャンス)がそこに介在している。それが磨きあげられず、立派な台座に据え置かれていないこと、木材や石膏といった、どこにでもある素材が使われていることなどは、あることを明確に示している。エアヴィン・レーゲルの「作品」が「ただの木材」「ただの石膏」でなく「作品」であることの根拠は、つまり複数のものが組み合わされて造形されてあるというところに示された意図や契機(チャンス)に純化されている、という事実だ。もう少し踏み込んでいうなら、エアヴィン・レーゲルの手さばきは、目の前にある素材が素材ではなくまぎれもない「作品」となる、そのコア、その謎の部分以外のものを取捨している。この彫刻家の、とくに木材と石膏で形作られた作品には「作品の作品性」以外のものが付与されていない。あるいは「作品の作品性」だけが裸のまま、ごろりと投げ出されている。


このように見ていけば、ブロンズで鋳造された作品がどうしても「一つ余計な手がかかっている」と見える理由は明らかに思える。そこでは木材や石膏で組み合わされ造形されたフォルムだけが抽出され、そのフォルムが産出されたプロセス、というよりはやはり契機(チャンス)が覆い隠されている。エアヴィン・レーゲルが目の前の素材や断片から「作品」を生み出していく、その中核の部分が見るものから遠くに押しやられているのだと思う。ブロンズで鋳造されれば、無論その物質的な強度は増すだろう。対して、木材と石膏で形作られた作品は脆く、常に元の素材・断片へ回帰してしまう危険を孕んでいるだろう。しかし、そもそもエアヴィン・レーゲルの彫刻作品の貴重さは、その脆さ、弱さ、儚さに支えられているのではないか。ブロンズ鋳造で抽出されたフォルムに意味がないわけではない。しかし、そのフォルムはエアヴィン・レーゲルの彫刻作品の貴重さの一角にすぎない。またその骨格の「複数性」が、鋳造によって一体化されていることも見逃すことができない。


ここで僕が最初に書いた「ささやかさ」とは、そしてその「ささやかさの質の高さ」とは、エアヴィン・レーゲルの作品の、おそらくは裸の感覚に根ざしている。この裸の感覚とは、素材が素材から作品へジャンプする跳躍の工程がすべてむき出しになっている、ということだと思われる。そしてその跳躍の高さは、必然的に物理的な脆さと背中合わせになっているように思える。エアヴィン・レーゲルの彫刻はその本質において壊れやすい。しかし、それはその質の高さを目撃したときの経験の壊れやすさとは一切関係がない。一度この作家の「質」を感受しえたものには、むしろ強固に刻まれるはずなのだ。その強固さはけしてブロンズのような物理的支持体の強さによるものではないと思う。