メディアの条件の露出としての「メディウムの条件」展

ART CRITIQUE n.04のユニークな点は、刊行にあわせて企画展「メディウムの条件」を開催した所にある。会場のHAGISOはカフェ併設の空間で、必ずしもフラットではない場所を有機的に活用していたのは参加作家の力量なのかもしれないが、複数の形式の作品が、しかし散漫に見えないのはやはり単なる「三人展」ではない、コンセプチュアルな姿勢故と言っていい。


写真が活動の中心という吉田和生の作品で最も印象的だったのは、会場二階の屋内バルコニーに設置された映像作品だった。壁面に縦に設置された液晶モニターに、水面に映った樹木がある。空も見える。鮮やかな緑の葉に覆われた、こんもりとしたボリュームが、水面にたつさざ波によって時折歪む。樹木自身も風に揺れている。最初に(おそらく多くの人が)疑問に思うのが、この水面の揺れはデジタル上で人工的に作られたのか、それとも自然のゆらぎなのか、ということではないだろうか。水面の揺らぎは液晶モニタのフレームに対して呼応し、時にブロック型に近くなるような時もあるのでそのような疑問が湧く。しかし、同時にこの作品の生み出す魅力が、必ずしも自然の美しさのみに収斂しないことも分かる(映像が人工的であったとしてもその本質は変わらない)。水面のゆらぎの滑らかな複雑さと、その「向こう」(この対象への距離もまた興味深いのだけど)の樹木の葉のざわめきとが相互に重なり、輻輳することで生まれる独特な視覚的波長が、それ自体で魅力となっている。


水の透明感とか樹木の揺らぎの美しさだけでなく、映像作品自体の生むビート(その緩やかさから「リズム」という言葉がふさわしいかもしれないのだが、時に急に水面のさざ波が複雑になることがあって、そのシーンではどうしても「ビート」と言わないと追いつかない)が純度高く抽出されている。音がないことも、この映像の純度の高さと関係するだろう。同時にモチーフとしての樹木や水あるいは空も重要な存在として残り続ける。映像モニターから外部世界へリンクが張られることで、作品の生み出す波動が飽きのこない拡張されたものになる。先の東京都写真美術館・高谷史郎による「Toposcan」も想起させるが、しかし圧倒的な技術的構築(超高精細な撮影技術)によりスペクタクル的側面も持った「Toposcan」に対し、遥かにミニマルでささやかな吉田和生の作品は、その非スペクタクル性によって別のベクトルを持った作品になっている。


益永梢子の作品は、棒状の支持体に布でカバーがしてある(実際の構造がそうなのかは分からないのだけれども、そのように見える)作品が興味深い。会場にある2本の柱の間にぴたりとはめ込まれた作品と、壁に立てかけられた作品があるのだが、どちらも二つの支持点(柱と柱、壁と床)を渡すことで成り立っている。布は複数の色で分けられ、棒状のいくつかの箇所で分節されている。先端で布は長さがやや余っている(内部が充填されていない)。また、布の小さな取っ手のようなものもついている。支持体、布、色彩、という構成要素を取り出せば、やはりこの作品は絵画を想起させる。しかし、その空間への拡張の力は、絵画という枠組みをかなりの程度抜け出している。


他の出品作、例えば色彩の施された画布が複数組み合わされ壁に半立体的に留められたものを見れば、この棒状の作品によって作家が手をかけた場所が、ずっと絵画から遠くまで来ていることが分かるのではないだろうか。そして、その上でやはり絵画という支持点にもこの作品は接している。つまり実作が柱と柱、壁と床という2点を渡しているのと同時に、絵画と空間という水準でも2点を渡している。このような拡張力がどこからくるのか。益永梢子に感じられるのは周囲の世界を形式的に様々に変換・拡張しえるものとして見ているのではないかという予感だ。この作家は作品の素材選択に見られる日常性を操作可能的に眼差す作家であって、今回の作品ではその感覚が犀利に現れていたと思う。


早川祐太の作品は、以前大山エンリコイサムとの二人展「フィジカルの速度/Physical Kinetics」でも見ていた。天井に取り付けた扇風機の羽に線を垂らして回転させ、いわば紐による架空の回転体を出現させる作品が今回と別のバージョンとしてあったが、彫刻家としての資質に恵まれている様に見えた作家がなぜ「フィジカルの速度」展で壁にかけたアクリルボックスに樹脂の粒を充填させるといった、絵画的アプローチをしていたのが上手く了解できなかった。しかし「メディウムの条件」展では充実した展示を行っていた。この作家は物質的特性に体する作用とその結果への、奇妙な執着的関心から思考を展開しているように思う。そしてその視点からなら「フィジカルの速度」展での展示も了解できる。


例えばビニール袋に樹脂を充填し、固化した段階でそのオブジェクトを鋭利に切断して断面を見せたと推測される作品では、結果的に生まれたフォルムそれ自体だけでなく、切断された樹脂の表面の妙な生々しさに視点が吸着する。会場二階に展示されていた、1.高い場所にある水槽、2.そこから伸びるビニールチューブと途中でそれを締め付けるクリップ、3.壁面に固定されたレンガ(そこに滴るビニールチューブからの水滴とその痕跡)、4.床面に置かれたレンガ、という構成の作品は、早川祐太の物とそこに働く力が表す様態への関心を最も複雑な形で見せていたと思う。液体が固化する過程で生まれる形であれ、鉛直線が回転した結果生まれた回転面であれ、水がレンガに残す痕跡であれ、変容の痕跡への作家の関心が定着していた。


この展覧会はポスト=メディウム論の導入、具体的には筒井宏樹編著による『コンテンポラリー・アート・セオリー』(イオスアートブックス)で沢山遼によって書かれた「ポスト=メディウム・コンディションとは何か?」、さらに先頃刊行された「表象08」(表象文化論学会)の特集「ポストメディウム映像のゆくえ」(ここでクラウスによる「メディウムの再発明」が星野太によって訳出されている)を、そのバックグラウンドに意識してしかるべきものだと思う。しかし、僕には「メディウムの条件」展もART CRITIQUE n.04も、海外の美術理論と国内の状況の平行性のあぶりだし、という見方よりはむしろ現在の、個々の美術の現場(作品の制作に限らず美術批評・理論の場、あるいは市場や美術館といった美術に関わるもの全体)で常に直面される基本的な課題設定として捉えた方が生産的に感じた(雑誌であるART CRITIQUE n.04にとってジャーナリスティックな側面が無視できないのは当然として)。


あえて言えば、佐々木友輔の揺動メディア論と会場で上映された映画作品は、ポストメディウム映像という切り口からも積極的に検討可能だろうと思う。いずれにせよART CRITIQUE誌と「メディウムの条件」展のような試みは、見方によっては公立美術館や大型出版社が一定の予算とリソースを割いてやるに値する事業で、そういうものが一個人の、独立メディアによって実行されてしまったという事実は、それ自体で日本美術の「メディウム(メディア)の条件」を露出していると言えるかもしれない。展示は終了している。