青山大輔「Works on Paper」関連ツイート
Twitterで投稿した青山大輔「Works on Paper」展の関連ツイートをまとめておきます。
公開デモンストレーションで思い出したけど、ART TRACE GALLERYの青山大輔「Works on Paper」もいわゆる画家の個展とは若干趣が異なる感じ。絵画展というよりはむしろ実験結果の公開というか、標本群の公開に近い。http://t.co/bTeNtKg2fu
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 13
青山氏の試みは美的作品の展覧ではなく、そのような感性的判断の基盤となるものを一個ずつバラしては微細に組み替えることで、判断それ自体を組み替えていこうとする一種の手術に近い。展示されているのはその手術でスライスされた病理標本ではないか。http://t.co/bTeNtKg2fu
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 13
いや、この言い方も少し違うかもしれない。青山氏の作品を見ることで手術されスライスされるのは、観客である僕の知覚、僕の感性的判断だったかもしれない。そういう意味では青山大輔「Works on Paper」は、手術の病理標本の展示ではなくそれ自体が手術台なのかもしれない。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 13
青山大輔「Works on Paper」、更にはある種の記譜であるようにも見える。一般にこういった試みに使われるたとえとしては日記、みたいな言い方があると思うが、しかしこの、あまりにも微分的かつどこか分析しきれない感覚の不鮮明な閾値を確認しようとする執拗な試みは、日記という(続
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 13
承前)日常的なサイズに収まらない。率直にいえば、見て快感を覚えるような展覧会ではない。むしろ専門的な医師の症例報告、あるいはごく局所的な工学的実験結果の成果報告を読んでいるかのようだ。しかも、そこでの「成果」が、どんな「効果」を生み出すかまったくわからないような「成果」。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 13
青山氏にとって、美術とは、あるいは絵画とは、ある一定の「効果」を得るたものものでも、ましてやその作品を公開して観衆の「歓心」を得るためのものでは全くなく、前提として「認識」の問題であるということが理解できる。無論、近代以後の絵画において、(続
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 13
承前)それが視覚的快楽を得るグラフィックなショーではないことは当然といえば当然なのだが、しかし、ここまでやってくれる例はなかなか貴重ではないか。そして、その上でいえば、その凄腕の外科医のような手つきで生み出される標本群が、ある一定の鑑賞の中でがっと「快楽」を、(続
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 13
承前)いわば自分の視覚を直接触られるような快楽を得る場面が訪れる。そこまでの時間の遅延は「訓練」みたいな一種の苦痛を伴う(僕の場合はともなった)のだけど、快感が単なる刺激であるのに対し、快楽はやはり一定の苦痛を通過した後にくるものなのかなとも思う。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 13