大衆はブタだ

昨日ちびっとTVドラマネタを書いたら、急にHIT数が上がった。おまえら、そんなにミッチーやらキョンキョンが好きですか。ここはなぁ、名もなき日曜画家が崇高なるゲージュツについて切々と語る所なんだよ。ちょっと日本語が不自由だったりするけど、そんな些細なことはゲージュツ家は気にしないんだよ。普段ポエミーな芸術話ブッてる時はスルーのくせしてさ。2ちゃんに帰れ。

で、しょうこりもなくミッチーこと及川光博の「マンハッタン・ラブストーリー」の演技について書く。
マンハッタン・ラブストーリー及川光博は、モテキャラではない(モテキャラはなんと松尾スズキ)。彼は女性脚本家に片思いしながら叶わず(松尾スズキに負けてる!)、小泉今日子演じるタクシ−ドライバーとの間で揺れるのだが、この「揺れ」をもって、及川光博が「内面」を表現してるということにはならない。

台詞ベースでは、叶わぬ恋に対する悩みを吐露する言葉があり(この部分の脚本がイマイチだったりする)、演技においても「悩んでる」素振りを見せるのだが、その演技の総べてが「マンガ芝居」になっている。公式ホームページでの及川光博のコメントを読むと、どうやら及川光博はこの「悩んでる」シーンの演技によって「王子様キャラ」じゃない「本当の自分に近い」演技、内面を表現する演技をしているつもりらしいのだが、事態はまったく逆である。内面的(自己反省的)シーンの立ち居振る舞いですら、下手なペンキ絵のような、ぎこちないペラペラの演技をしてしまうことによって、むしろ及川光博が心底王子様キャラであることがはっきりしてしまっている。

むしろ、ベタな王子様キャラシーンでの、いきいきとした演技(というよりはショー)でのほうが、及川光博人間性というものが自然ににじみ出ている。すなわち、どんなに悩もうが片思いしていようが、どうにも「王子様にしかなれない」星の下に生まれてしまった苦しみというものがこの世にはあって、苦しんでいるのに王子様をしてしまう及川光博の悲しみが、そういうシーンでこそ発揮されているとおもうのだ。

公式ホームページでの及川光博の発言は、少々危険な香りがする。もし彼が、自分には「王子様ではない、''普通の人''の側面もあるんだ」ということを示したくなっているのだとしたら、それは絶対にさけなければならないと思う。むろんリアルな及川光博には、王子様ではない側面もあるのだろうが、その部分を''普通の人''として示すような表現は、むしろ切り捨てていかなければいけない部分なのだ。この場合の''普通の人''というのは、単に「一般的な普通のイメージ」でしかなく、そんな''普通の人''など実はどこにもいない。彼が''普通の人''として振る舞いたい、というのは、王子様にしか「なれなかった」苦しさ、非凡でしかあり得なかった自分からの逃避であり、「普通の世間」という仮構された共同体の一員に迎え入れられたいという、退行的欲望の現れでしかない。

だから、及川光博を評価する観客は、「マンハッタン・ラブストーリー」での反省的シーンを見て「ああ、彼も普通の人間なんだ、私達と同じなんだ」なんていうミスリーディングは絶定にしてはならない。そんなシーンにこそ、上記のような及川光博の「王子様でしかいられない」ありかたを見なくてはいけないと思う。