森美術館完全?レビュー#8

六本木クロッシング」展・全作品コメント、その6。

んー中途半端に残してしまいました。残り5つは明日更新します。ずいぶんしつこくこの展覧会にはつきあってしまいましたので、明日は残りのコメントに「六本木クロッシング」展全体の雑感をつけてみたいとおもいます。

●45. 池田謙
かなり暗い小部屋に写真(ごく普通のサービス版)が大量に散乱しています。暗い為、そこに何が写っているのかはわかりません。正面の壁に細いスリットがあいており、光が漏れています。そこを覗くと、昔の映画かテレビ番組が粗い映像で写っています。

バークレーで音楽を学んだ作家による映像インスタレーション。過去の映像作品をサンプリングした作品を提出するとき、この作家は「暗さ」を強調しました。「わかる」ことよりも「わからない」こと、「見える」ことよりは「見えない」ことが沢山積み重ねられると、人は不安に陥ります。その不安を形にして理解し、安心するために、人は過去の体験と現在の状況の接点を探しますが、ここではそれが上手く結びつけられません。なんというか「記憶の幽霊」を体感するような作品です。

●46. 鶯蛙
絵、なんですがちょっと不思議な質感です。ちょっと見では画材がわからず、キャプションを確認したら日本画の素材で描かれていました。パンフを見ると、どうやら1度描いた絵に放射線を当てて古びさせた(色褪せた状態にした)ようです。
ここでもテーマは過去の幼児期への遡行にあるようです。会場もここまで来ると、なんでこんなにも「子供」を扱った作品が多いのか考え込まざるをえません。ポジティブに扱うものであれ(青木陵子伊藤存、生意気)、幼児的無気味さや不安を扱ったものであれ(小谷元彦、上村亮太)、ノスタルジックな共感を喚起するものであれ(ヤノベケンジ、村山留里子)、見事なまでに子供、子供の繰り返しです。

●47. 会田誠
旧作の「オオサンショウウオ」に加えて、米俵を担ぐ全裸?の少女の絵があります。どちらも無闇に大きい絵です。
会田誠は、一貫して「日本と日本美術のいかがわしさ」をパロディにし、告発してきました。そしてあっさり成功してしまいました。成功というのは、売れた売れないではなく、みんなが非常に早く「日本と日本美術のいかがわしさ」を笑う視点を手に入れ、みんなが非常に早く「日本と日本美術のいかがわしさ」を消費しつつあるということです。
そのことで「日本と日本美術のいかがわしさ」はなくなったりはしません。ただ薄いベールで隠されていたものが簡単に取り外され、みんなに認知された瞬間に開き直り、みんなそろって、それをエンジョイするようになっただけです。
この先、会田誠は、どうするのでしょう。

●48. 石川雷太
世界各国の紛争をポップな図柄にデザインし、100枚のTシャツにプリントして展示したもの。
この展覧会で唯一ダイレクトに戦争を扱った作品。そしてその扱い方に、作家と我々の置かれた状況が見えます。要するに我々にとって戦争とはデザイン的図柄であり、消費するしかない情報であり、メディアだ、ということです。それを批判するのは簡単ですが、日本という場にいて、そういった条件から自由であることはできません。
血まみれの牛の頭骨を展示したりする、インパクトが話題になりがちな作品を発表してきた石川雷太は、今回「戦争」を扱う際に、自らの立場や姿勢に非常に正直でした。しかし、何かが足りない。その足りなさは石川雷太の資質によるものではなく、「戦争に触れられない日本」という状況にいる人間の問題なのかもしれません。

●49. 花代
会場の壁にいきなり鉄格子がはめられ、その向こうのくらがりに、遠近感を強調された暗い空間があり、枯葉や木の枝によって雑木林が再現され、そこで行われたらしいパフォーマンスの映像が流れていたりします。
人にもよるでしょうが、個人的に僕は「雑木林の淫媚さ」というものを幼児体験の中に強く持っています。落ち葉に埋もれるように散乱していたエロ本とか、秘密の基地作りとか、etc.の舞台が雑木林だったのです。そこにダイレクトに響く作品ではありました。で、また幼児かよ、とげんなりするわけですが、これは僕個人だけのことなんでしょうか。

●50. クワクボリョウタ
webで検索された単語がバラバラに分解され、新たに連鎖したり結びついたりする様子を、会場の床面に映し出す作品です。
気持ちも意図もわかります。というよりわかり易すぎです。作家の意図は一度棚上げして、「webで検索された単語」を、もう少しマニアックな分野に限定しても面白かったかもしれません。アダルトサイト検索ワードだけを扱うとか。

●51. 高嶺格
韓国のハングル文字が「習字」で書かれ、表装されて飾られています。朱による直しも入っています。カタログを読んで知ったのですが、この人は在日韓国人の方の恋人との関係を基点に作品製作をしているようです。以前は朝鮮の人が強制労働させられた地下坑道にこもって作品製作をしたりしていたみたいです(http://www.kyotobiennale.com/takamine_exibit/)。
作家本人はハングルはまったく読むことも書くことも未知だとか。そういう人が見ようみまねでハングル文字を「習字」してみたというところに、この作品の面白さがあります。個人的な恋愛関係に内在する「社会問題」を基点に「アート」を作ってしまうという、若干の飛躍に伴う「うさんくささ」に対する自己批評なのかもしれません。
ただ、一緒においてあった動物の骨が意味不明でした。はてな

●52. ミッション・インヴィジブル
「楽しい絵」「最低な絵」といった言葉が、布にプリントされ壁面に飾られています。「楽しい絵」という言葉を見た人は各人なりの「楽しい絵」をイメージし、「最低な絵」という言葉を見た人は各人なりの「最低な絵」を想起するというのが、この作品の狙いなようです。1つの言葉から、観客の数だけ絵が浮上したり、誰かの「最低の絵」と誰かの「最高の絵」が同じ絵だったりするかもしれません。
目論みは分かるんですが、なーんかどっかで見たような手口なんですよね。広告でもあったような。絵を見るというのは、非常に個人的な体験であるのと同時に、とても社会的な文脈(どんな環境で見ているのか)にも深く影響を受ける体験です。そのへんの複雑な交差を、もうすこし上手く抽象的に照射できる作品になっていれば面白かったんですが。