3/21の、東京ピクニッククラブについての記事(id:eyck:20040321)について、東京ピクニッククラブの協力者?の方が言及しています。「■ 「ピクニジェンヌ」ってあなた。」http://cgi.din.or.jp/~hajimebs/cgi-bin/bsbbs/

まずは僕の記事中の言葉の間違いが指摘されています。「ピクニシェンヌ」を「ピクニジェンヌ」、「ピクニカビリティ」を「ピクニビリティ」と誤記してしまいました。以下引用。

それと「ピクニシェンヌ」「ピクニカビリティ」ですのでよろしく。
(ピクニジェンヌ、ってなんだかタカラジェンヌみたいだな)

大変申し訳ありませんでした。臥してお詫び申し上げます。

しかし、僕の文章は基本的に東京ピクニッククラブの作品についての形式的批評であり、真に応答すべきは以下の部分かと思います。

むろん、太田さんたちは、「多少の距離を億劫に感じてはいけない」などとは主張していない。ピクニックのために「多少の距離」を一生懸命移動しないといけない、という「現実」に対して、そもそもそれは違うんじゃないの、と言っているのです。(中略)ピクニッククラブでは、特に昨夏のフィールドワーク以降、「都市・東京のために、高密度に住んでやってるんだから、せめていつでも利用できる芝生のフィールドくらい、すぐ近くによこせ」というまともに大上段な主張と同時に、「都市に意外なピクニックフィールドを発見して楽しむ、自分自身の心情を獲得することも大切だ」という主張も並列していて、僕はどちらかというと(自分のキャラ的にも)後者に興味があるのである。

この文章は、確かに東京ピクニッククラブの「可能性の中心」を指し示すものです。ことに「都市に意外なピクニックフィールドを発見して楽しむ、自分自身の心情を獲得することも大切」というくだりは示唆的です。この意図が作品に上手く埋め込まれていさえすれば、今回の展示物も、ピクニック不毛の東京に過激に切込むためのラディカルな「装置」と見る事が可能となったかもしれません。

が、今回の展示は移動可能な芝生ユニットと「ピクニカビリティ」の一部を記した文字のみであり、そこから東京ピクニッククラブ共同体の外にいる人間が、上記の「可能性の中心」を見ることは非常に難しい。端的に言って「無理」です。そういった好意的解釈は、あらかじめ東京ピクニッククラブの内部にいて、「ここは、都市におけるピクニックを極めて積極的に考えている集団であって、単なるゆるいピクニックサークルではない」という価値観を前提的に持った、コミュニティ構成員にしかできません。

ps.「ピクニック」という言葉を久しぶりに聞いた同居人が「ピクニックやりたい!」と言いはじめました。この些細な出来ごとが、東京ピクニッククラブへの手向けとなれば幸いです。

(3/25に文章の1部を削除)