フェルメールのマチエール

今さらですが、東京都美術館でやってた「栄光のオランダ・フランドル絵画展」を見てきた時の感想を。展示はとっくに終了しています。フェルメールは「画家のアトリエ(https://www.osaka-event.com/event/vermeer/ver.jpg)」1点のみの展示でしたが、十 分見ごたえがありました。

フェルメールの絵のマチエール(絵肌)は、物質感が消える手前まで絵の具を粒子化して、その層を積み重ねることで作られています。フェルメールには、たとえば完全にマチエールの物質性を無化してしまう仕上げ(フィニ)はありません。同時に、筆によるタッチによって、ダイレクトに絵の具の質を感じさせるものでもありません。また、絵の具を「対象そのもの(例えば人の皮膚/肉)」にしてゆくような方向でもありません。このことは、同時代の作家達の作品の中でフェルメールを見る時に、際立って見えるように思われます。

フェルメールは絵の具の粒子を、ほとんど光の粒子と一致させるような描き方をしました。そこでは、光りは粒(光子)として捕らえられ、絵の具はその光りの粒子と一体化するような「粒度」で扱われます。その光子と化した絵の具が、他に類をみないマチエールを織り成します。

フェルメールは決してマチエールを無化しません。また、同時にモチーフ(対象)のテクスチャ(物質感)に拘泥し、のめり込むこともありません。フェルメールは、全てのモチーフを一度光子に分解し、そして光りの粒子と絵の具の粒子が重なるよう絵の具をコントロールします。そのコントロールされた絵の具が、改めて光を反射して(このとき光はコントロールされた絵の具によってコントロールされます)観客の目に知覚されます。

モチーフ(対象)は一度全て光子のような粒に分解されますから、フェルメールの絵ではモチーフの「物質性」は全て均一な粒度になっています。そこでは人の肌も、カーテンも、磨かれた石の床も等しい粒度で扱われます。ただその光子の振動(波長)の差によって、彩度や明度が変化し、画面上の空間が発生するのです。ここでモチーフは一度その属性を抽象化されます。フェルメールの描く人物に、人間的な湿り気はありません。フェルメールの描く明暗の「暗」に、いわゆる「暗さ」はありません。言わば、光子の一状態としての暗さがあるのであって、光子自体は明るい部分と同じように遍在します。ですから、フェルメールの絵の暗い部分にも、確かな抵抗感があるのだと思えます。

このことは、例えばフェルメールがピンホール・カメラを使ったことを考える場合、重視すべきです。例えば、現代でも写真を使って「写真的絵画」を描く人はたくさんいますが、そこでは写真にあらわれる「像」が注目され、「物質」は無視されます。ですから、写真的/映像的な現代絵画は、ヌメっとした画面の仕上がりを見せ、そこでは光/絵の具の物質性は「みないこと」にされます。

フェルメールのピンホール・カメラを使用した絵画は、そのような「像的」絵画とはまったく違います。同時に、フェルメールの絵では、対象を分解するのと同じように、絵の具自体も分解されます。そのマテリアルはモチーフと同じように一度「光の粒」の次元にまで分解されるのです。こういった絵の具の扱いは、スルバランがハイライトの白色を扱う時などにも見られますが、近代絵画で「絵の具の物質性」が問われた時には置き去られてしまいました。

フェルメールのマチエールは、今も改めて検討される余地があると思います。それは、なまじっかな図像解釈などよりも、はるかに重要でスリリングな問題なんじゃないかと思いました。

で、この展覧会は神戸に巡回しています。関西の方はぜひ。

「栄光のオランダ・フランドル絵画展」

  • https://www.osaka-event.com/event/vermeer/vermeer.htm
  • 神戸市立博物館
  • 〜10月11日(月・祝)
  • 午前9時30分〜午後5時(入館は午後4時30分まで)、
  • 金・土曜日は午後7時まで開館(入館は午後6時まで)
  • 休館日:月曜日、ただし、祝日の場合は開館、翌日休館

そういえば2000年の大阪市立美術館で一気にフェルメールをたくさん見られたことは幸運でした。あんなのもう一生来ないだろうなぁ。新幹線で見に行った甲斐はありましたね。しかしなんであの場所だったのだろう。