バカにもわかる美術の本。(5)

今回の読書案内のテーマは「挫折しにくい。だけど中身は良い」という感じです。絶版の本に関しては、この際古本探しのノウハウも身に付けちゃってはどうでしょう。
●文芸批評とか。
なんでここで文芸批評が出て来るのか、と言われてしまうんだろうけど、「作品に基づいて考える」という基本軸は共通してると思いませんか?ま、能書きはともかく、日本の文芸批評ってやたらと良いのだ。というか美術批評が厳しすぎなんだけど。で、大事なのは「読み替え」能力だと思う。応用力と言ってもいい。以下に上げる本は、ちょっと頭を使うと美術のことを考えるのにとても有効だと思うのです。

  • 「文学がこんなにわかっていいかしら」高橋源一郎著・福武文庫

とにかく使える。なぜかというとこの本自体が、とても明解に「読み替え」という技法を教えてくれるからだ。広告への批評を文学批評に置き換えてみる。死んだ大作家を新人作家として、つまり「今」の作家として読む。対象の作品を真似て、その作品について述べるetc.、あらゆる手段で作品を読んでいく。そして多様な文体が、次々とくりだされる。落語みたいな言葉で批評を語り、マンガみたいな言葉で文学を語り、大真面目な言葉で文章を語る。ごく普通に、本として面白い。
そして、2度目3度目に読む時に、そこで語られている「小説って○○だ」という文章の、「小説」の部分を「美術」に置き換えて読んでみよう。あら不思議、やたらめったら当てはまりません?名作。

しまった。文芸批評ですらないぞ。サルまんて。いやしかし、ちょっと待てよ。これだけ見事なカテゴリーの構造解析ってめったにないぞ。今モニタの前で鼻で笑っている人がいたら少し考えてほしい。この本で行われている、徹底したマンガという技法の分析と文脈の検討、そしてそれを踏まえた実践に匹敵する美術作品あるいは美術批評を、今の我々はどのくらい持っているのだろうか?僕はこの本を読んで笑いながら震撼した。この本で成立している批評が美術では成立していない。この本を笑って投げ捨ててしまえるだけの物を、日本の美術シーンは持ち合わせていない。もしこれを「下らない」と言うならば、相応の覚悟がいるはずだ。

これは、読み替えとか応用とかいった次元とは違った意味でのチョイス。美術であろうが文学であろうが何であろうが、そもそも、日本という「悪い場所(椹木野衣)」で、物事を考えるというのは可能なのか。可能だとしたら、どのような条件においてなのか。そんな条件なんてあるのか、という事をつきつけられる本なのだ。
僕達は美術館に行って作品を見る。図書館で本を読む。キャンバスに向かって絵を描く。ノートやblogに言葉を書く。そういうことをしていれば、なんとなく「考えている」気になれる。でも、そんな「なんとなく」を形作っている枠組みに、どうしようもなく「思考」を流産させる土台が含まれているとしたら?僕達は、決定的に思考から見放されている。そんな中で、なお思考しようとしたら、それは途方もない意志を必要とするのだ。そんな「意志」の凄まじさというものを確認するために、この文章はある。

同じ「差異としての場所」に収録されている「形式化の諸問題」も重要な論考です。これはダイレクトに美術の事として読むことが可能です。どちらも必読。