かわさきIBM市民ギャラリーで開催中の古谷利裕展に行ってきました。


キャンバスにアクリルジェッソ/顔料で描かれた作品が10点、うち8点が麻布に下地なしで描かれています。残り2点は通常の白い下地の作られたキャンバス地です。ドローイングは紙にモノクロ(ブラックジェッソ)で描かれたものが18点、カラーで描かれたものが3点です。モノクロのもの は壁面にピンで直接とめられ、縦3つ×横6列に並べられています。カラーで描かれたドローイングは額装されています。


小さいもので60cm四方、大きいものでも長辺が1m程度と思えるサイズのタブローは、水分が押さえられキャンバスに浸透しない絵の具が、画面の四方に余白を多くのこしながら斑点様に点在しています。個々のタッチは2色、あるいは複数の色彩が完全に混色されず微妙な混ざりあいを見せながら、縦、横、斜めに置かれています。いくつかのタッチでは筆が置かれた後にその置かれた方向からずれた方向へ「はね」あるいは「ひねり」を見せて動いています。また、筆が置かれた位置から力を込めて動かされ、終点でまた押さえられて離れたようなタッチもあります。他にも、短い距離を往復したようなタッチ、斜め上方から振り下ろされ、そこで止まったようなタッチもあるように感じられます。いずれもメディウムの添加がなく、アクリルジェッソ(下地材)特有の粒子感、ザラザラした手触りが感じ取れます。タッチどうし自体は混ざりあうことが少なく、うすく溶かれた絵の具は一切使われていないことから、全体に乾燥した印象があります。


タッチとタッチの間は、作品によっては密なものもありますが、多くの作品では隙間が目立ち、キャンバスが見えています。色彩は限定されていて、藍、青、水色、くすんだ緑、焦げ茶色から明るい褐色までの幅をもった何種かの茶色、赤、白などが確認できます。これらの限られた色も、全てが同時に使われることなく、青が比較的多く使われた作品では黄土色や白などが併せて使われても赤や緑は使われません。逆に赤の強い作品では白や褐色が使われても青は姿を見せません。具体的なモノの形態がなく、絵の具の重なり合いも少なく、更ににじみ・ボカシが排除された画面には、奥行きを感じさせるイリュージョンは発生していません。会場の作品にはキャプションがなく、配布されているカタログには限定された作品についてしか記されていないため断言はできませんが、ほとんどの作品がplantsと題されているようです。


タブローで特徴的なのは、ドローイングや去年の1月に行われた古谷氏の個展(参照/id:eyck:20040128#p1)と比較的して、タッチの「運動量」が小さくなっていることです。ストロークと呼びうる「長い距離」を持った筆跡はなく、また昨年のスクエアの作品で多用されていた筆の「ひねり」も抑制され、静的な印象が強くなっています。ただし、完全に止まったタッチは見受けられません。少ない距離ながら、筆は必ず動いています。一つ一つのタッチが、勢いに流される事なく、ゆっくりと置かれています。このことから、各作品は「激しい動き」とも「静止/停止」でもない、独特の「速度/時間」を内包することになります。


この、「停止」や「スピード感あるストローク」ではない、古谷氏の作品独自の「ある速度/時間」に観客が知覚を併せていくのは楽なことではありません。観客は一度自分の「良く知っている」速度/時間の感覚を留保し、目の前の作品に立ち表れている「すこしだけ動く」という時間や「停止-移動-停止」といった繊細な「速度」を「読む」ことになります。また、「角度」も重要な要素となります。それぞれのタッチはいずれも極めて微妙な「方向感覚」を持っており、明快で単線的な角度とはなっていません。


古谷氏の絵画を見ることには、ある種の「集中力」が必要となります。しかし、その「集中力」によって、それを見る人は初めて自分の持っている「時間」や「速度」や「方向」といった感覚に自覚的になります。荒川修作氏が現在実現中の「身体をゆさぶる住まい」(参照/id:eyck:20041029#p1)において、あえてつまづきやすく身体感覚をゆさぶる空間をジェネレイトしていますが、それを想起します。むろん、イリュージョニスティックな奥深さとも無縁な古谷氏の絵画は、そこに「入り込む」ことも許しません。絵画を見ることに慣れ、絵画に「既知の心地よさ」を求める人ほど、そのような「期待」を一つ一つ解除され再検討を迫られるような感覚を味わう事になる展覧会だと思えました。


●さまざまな眼143 古谷利裕展