古谷利裕氏が「偽日記」において、僕の先日のエントリ(id:eyck:20050506)に応答されています。

5/7の記事です。
まず、なによりも僕が当該エントリで書いた「苦しさ」というものは、あくまで古谷氏の作品のポジティブな側面を示したつもりのものであり、「上手くいっていない」ことを表現したものでも、ましてや「作品をつくっていても報われることが少ないのに、あえてそんなことをするのは大変でしょう」なんていう事を意味しているものでもないことを、ご了解頂きたいと思います。


僕が「苦しさ」という言葉を使ったのは、主に古谷氏の作品の「微妙な繊細さ」「複雑さ」に起因していると思います。古谷氏の今回の作品は「一目でわかるダイナミックさ」や「派手さ」といったものはなく、各タッチが一見シンプルなものでありながら、そこに様々な性質の時間を含み、繊細な角度や運動感覚を持っていて、それらの画面内での「かかわり合い」方が、1つ1つの作品となっているものだと思えました。


これらのタッチのあり方を感受する時(これは僕自身が絵を描くからでしょうが)それらのタッチが「どう置かれたか」をイメージしました。「いきおい良く引かれた」ものでもなく、単純に点々と置かれたものでもない、「1つのタッチ」の動きを追う時、思わず息を止めるような、ゆっくりとした所作を目で追うこととなり、それがとても即物的な「苦しさ」となって僕に意識させられたんだと思います(ですから、その「苦しさ」は視覚的なものではなく、呼吸とか姿勢とか、身体的なものでした)。


古谷氏の作品の多くのタッチは、どれも似ているように見えながら実はそれぞれのあり方が微妙にズレており、また各作品も、ちょっと見るとお互いに似ているように見えながら、やはりそれぞれに微妙に違ってあります。その「微妙さ」に気づくとき、ある種の集中力が要請されたということで、これは古谷氏の作品が一定の強度を持っているからにほかなりません。


というわけで、記述の一部を変更しました。この方が現場で僕が感じた実情に則しているからだと思えたからで、既に問題のエントリを読まれた方には御理解いただきたいです。もっとも、こういう語句の変更は、僕のblogではよくやることなんですが。


もちろんこういった受け取り方をしたのは僕の条件によるものでしょうし、僕自身も2度目、3度目と繰り返し見たら、また違う見え方をするかもしれません。もし僕の書き方が「誰にでも常にそう見えるものだ」と書いているように読めてしまうものだとしたら、そうではないんだということを明言しておきたいと思います。


古谷氏の作品に限らず、美術作品と言うのは誰が見ても見間違えることの少ない物理的な素材で出来ていながら、しかし見る人ごとにいろんな見え方をするものだと思います。ですから、やはりなるべく多くの人に古谷利裕展を見て欲しいと思いますし、それはいろんな所で行われている様々な作家の展覧会に対しても同様です(そして勿論僕自身の発表の機会に関しても!)。僕がこのblogで書いているレビューは、けして「正解」を目指して書いているのではなく、無数の偏差の一つとしてあろうとしているのだということを、ご理解いただければ幸いです。