クールベについて書く。先日まで書いたブリヂストン美術館で見た作品についての続きのようなものだけど、おまけというか補遺のような感じになると思う。こういった書き方になるのは僕がクールベについてよく分からないと思いつづけているからで、この文章自体も不明瞭なところがでてくると思う。


ここしばらく、クールベの作品を随分見ることができた。うらわ美術館での「ヨーロッパ絵画名作展」では、やや大味な「海」の作品を見た。「海」は国立西洋美術館の常設で、良いなと思う作品が展示されていて、これは何度も目にしている。三鷹市民ギャラリーのクールベ展ではそこそこまとまった数を展示していたが、なんともつかみどころのない印象で、このblogには書かなかった。ところどころでびっくりするような「ダメ作品」が混ざっていたという感想で、良いと思ったものもあったけれど、それが「どう良いのか」は掴めなかった。損保ジャパン美術館に来ていたクールベは怠惰に見逃し、ブリヂストン美術館で見ることができた「雪の中を駆ける鹿」は、なんどか文章を書こうとして書けなかった。


クールベにはつかみどころの無さ、あるいは「おさまりの悪さ」みたいなものがあって、それが機会がありながらもこのblogにtxtという形にできなかった理由なのだと思う。それが、なんとか自分の中でピントが合って来たと思ったのがブリヂストン美術館での「雪の中を駆ける鹿」を見た時で、それはクールベのとらえ所のなさをとらえられた、という事ではなく、そこがカナメなのかと(ようやく)思い至ったからだ。


「雪の中を駆ける鹿」はカタログでは1856-57年頃の作品で、サロンに出されて好評だった「追いつめられた牝鹿、雪の印象(1857)」と対になるように作られた作品ではないかと記されている。大きさは縦93.5cm×横148.8cmで、かなり横に長い構図となっている。画面上の高い位置に地平線があり、広くとられた雪原にぽつぽつと潅木がある。手前向かって左に大きく(近く)潅木があり、その影から鹿が向かって右に飛び出している様子を描いている。前足が進行方向に伸び、首は大きく画面向かって右上に振り上げられている。大きなツノが牡鹿であることを示している。後ろ足は飛び出してきた潅木の方へ強く蹴られ、鹿の体全体が大きく伸びて、いかにも「飛び出した」という運動感覚がある。鹿の蹴る雪原はまるでマンガの効果線のように鹿の進行方向に粗いタッチを見せていて、横長の画面と相まって鹿の疾駆を感じさせているように見える。


ブリヂストン美術館でこの絵を見たときの印象は、唐突だ、というもので、思わず「なぜ鹿?」といぶかしんでしまった。周囲にはコローの落ち着いた感じの風景画などがあり、大きすぎない画面に「いかにもコロー」といった感じの過不足のない色調と構図で描かれている作品と並べられると、この無闇に横に大きく、寒そうで貧相な雪原に「けもの」が(慌てて?)走り出した様子を描いたクールベの絵は、構図的にも魅力のない雪原が妙に間延びするように大きくとられ、ほぼ中央に芸も無く堂々ともしていない動物が描かれていて、どことなく「間抜け」な感じがする。そして、そのような「芸」のない絵の存在そのものが主題の鹿の疾駆のように唐突であり、違和感のあるものだった。


この、作品の主題である鹿の「唐突さ」と、作品そのもののあり方の「唐突さ」が、僕の中で妙にリンクした地点で何かが書けるのかとも思ったのだが、うまくまとめられなかった。クールベのリアリズムといえば、何の「演出」もなく、物語りや歴史/神話に依拠することなく、ミもフタもない「現実」をそのまんま描く、という姿勢を指してのことで、歴史画や宗教画などの西欧美術の流れの中に現れたその「唐突なミもフタもなさ」を示しているのがこの作品だ、と言ってしまえばそれまでで、よくも悪くも上手くまとまる。


実際、「現実」なるものは「現実」というある枠組みが用意されているもので、そういった中で人は「現実」に生きながら、巧妙に「現実」に出会わないよう組織されていたりするのだけれども(人の知覚というのは本当に良くできている)、そういった「現実」という枠組みが壊れてしまうふいの「事故」のような瞬間、あるいは諸知覚の失敗みたいなものが出現する瞬間があって、このクールベの「雪の中を駆ける鹿」は、やや大袈裟な言い方をすれば、「名画」があるべき(そして現実にある)ブリヂストン美術館に、いきなり鹿がのっそり歩いていたというような(事故のような)唐突さとしてある、と書けば、何か「言い当てた」ような気になることができる。


しかしこの作品に関しては、相応にそのあり方に文脈のようなものもある。カタログで書かれているようにサロンで好評だった、同じような雪原に狩猟で撃たれて倒れた牝鹿の死体を描いた絵の対になる作品、という位置があるし、並べて考えてみればこの駆け出した牡鹿の一瞬後の運命のようなものにも想像は届く。クールベ三鷹市民ギャラリーでも見られたように、単純に流れているのではないかと思えるような作品も多く描いていて、そもそも僕が感じた「唐突さ」は、現代の日本の美術館の「名画」展で、この作品を見たからこそ感じたのかもしれないし、そこにはこの作品を「唐突」にする、作品外の枠組みがあったのだとも言える。逆に、そのようなある文脈が外れていたからこそ、何かが露呈していたとも言える。


こうなってくるとほとんど何も言えなくなって来て、実際かきかけた文章も放棄したのだけれども、そこで僕が依拠せざるをえないのが、いかなる条件に挟まれていようと、現場で「雪の中を駆ける鹿」を見た時の「へんな感じ」だけであって、ここを外すことはできない。だから僕がこの作品に関して言うとすれば、とにかく「唐突だと思った」ということだけで、そこに今まで見てきたクールベの「つかみどころの無さ」「おさまりの悪さ」の積み重ねのようなものを併せてみていけば、美術史の本に書いてあったような、「クールベ的リアリズム」というような事に近付いてくるのかもしれない。長々と(しかも何度も)文章を書いてきた先にあったものが、こんな単純なことだと思うとそれこそミもフタもないのだけれど、少なくとも僕が何度も、誰にでも言われているような「クールベ的リアリズム」に「出会う」までは、こんな鈍重な備蓄が必要だったわけで、自分という人間のどうしようもない「遅さ」に改めてため息が出る。


こんな遠回りに何か一つくらいはお土産を持たさないといくらなんでもしょうもない気がするので書くのだが(そしてこれがこの文章での「言いたい事」なのだが)、もしかしたら僕が見てきた「クールベの変さ」というものは、いわゆる「クールベ的リアリズム」とは若干ずれているのではないか、ということで、どうせ遅い人間なのだから、この留保はしつこく持ち合わせていこうと思う。だから僕はクールベを、今後もなるべく(怠け心に負けないように)見ていこうと思う。