A-thingで行われている井上実絵画展の第一部を見て来た。後半の展示がこれからで、通して見てはいないことを外して考えても、何かを書くことがためらわれる所がある。作品にネガティブな印象を感じたからでは無く、その逆だ。幸福に「ただ見ていたいだけ」の作品というのがあって、井上氏の作品を見るのはオペラシティ・アートギャラリーで行われた展示、またこの春にあった飯田橋の個展に続いて3度目なのだけれど、この黙って見ていたいだけ、という気持にさせられる楽しさは、今回も同じように感じられた。


それでも何かしら書こうと思ったのは、井上氏の作品の楽しさが、単にペインタリーな快楽によるものではなく、むしろ理科の実験みたいな、知的な悦びに基づいたものだと思うからだ。初期作品(と言ってもいいのだろうか?)から新作らしいものまで、点数は多くないけれど井上氏の仕事の簡単な流れのようなものが見られる展示なのだけれど、この作家が一貫して「キャンバスに働きかけることで何が起きるのか」といった、遊びを含んだ試行錯誤を持続していることが見てとれた。


会場一番奥にある、一番古いらしい作品(群)は、複数のキャンバスにカーボン紙で同じ線描の図柄(唐草模様のようなもの)を転写し、それぞれ違った箇所を彩色している。それらの作品の下、壁と床の交点にたてかけられた作品(群)は、キャンバスにやや厚みと光沢のある紙が張られ、その紙がカッターでパズルのように切込みを入れられ、ピースとなった紙片のへりが微妙に浮き上がっている。


会場に入って向かって左の壁面には、比較的新しい作品がある。キャンバスに緑の線で葉の群れを線描したような作品は、周囲が比較的空けられた中に、ややもたもたと引かれた絵の具の線が、ゆるやかに集まっている。その手前には同じ大きさのキャンバスが2枚並べられ、それぞれにほぼ同じ、やはり葉の群れのような線描が反復されているが、向かって左のものはクリーム色と草色で、右のものは水色とエメラルドがかった緑で、一部の区画がフラットに塗られている。それ以外の箇所はキャンバスの地となっている。会場に入ってすぐのところには、単独の作品がある。赤や青など複数の、比較的彩度の高い絵の具が、やはり周囲が空けられた中に斑点様に置かれている。この作品では線描が消え、モチーフも判然としなくなっていて、抽象性が高い。


井上氏の作品は、キャンバス(の地)と「いかに遊ぶか」という試みの成果としてあるように思える。遊ぶという言い方は感覚的すぎて分かりにくいかもしれないが、実作には、そういうふうに言うしかないような楽しさ、そして充実した遊びに必ず伴う真剣さが、画面に定着している気がする。井上氏の制作は、キャンバスを、しっかりと見ることから始められているのではないだろうか。画面を無闇に塗りつぶしたりせずに、眼前にあるキャンバスに、ある働きかけを行い、そのことが引き起こした反響を注意深く聞き取って、次の「遊び」が行われる。そのことのくり返しが、色や形を「正確」にしてゆく。この正確さというのは、制作が続けられる過程で徐々に、色彩や図が個々の作品の中で「これしかない」というような厳密さとなって現れていっていることを指す。


こういう書き方をすると井上氏が、キャンバスの平らな面というものを自明のものとしているように受け止められるかもしれないが、僕はそうではないと思っている。むしろその“キャンバスの平らな面”というものを考え直していく行程が、井上氏の制作なのだと思う。そのことが感じられるのが、絵の具で画面に引かれた線の、もたつきや震え、あるいは鉛筆で引かれた線の筆圧の弱さ、繊細さで、この、慎重に、少しためらいがちに引かれた線は、キャンバスをあたりまえに前提としてしまっては決して引く事ができない複雑なゆれを含んでいる。単純に言って、井上氏がキャンバスに触れる力の微妙さは、物理的なキャンバスの強度に全く依存しない。そしてそのような、吃りながら、厳密に進められる絵画が、けして怖さとか不安を「塗りつぶす」ような頑なさに陥らず、あくまで「楽しい遊び」となっているところが、井上氏の作品にある快感の源であるように思えた。このゆるやかな「もたつき」は、会場に入ってすぐの、線描が見られない作品の筆致にも同じように見られる。


また、井上氏の作品はいずれも小さい。この小ささは、線やタッチの繊細さと共に、井上氏の作品を「ささやか」な存在にしているのだけれども、このささやかさは、人を圧倒するような大きさあるいは強さといった「分かりやすさ」とは違った「確かさ」を持っていると思える。この「確かなささやかさ」は、井上氏がなにも正解を前提にはしないで、つまり自分の制作を「方法」に頼って自動的に行わないで、そのつど、その瞬間ごとに何が画面に起きるのかを見定めながら、少しづつ積み重ねてきた成果としてあるもので、事前になにかを固定していたら、決して成り立たないのではないか。


第一部は14日まで。第二部は8/17からとなっている。open-close時間がわからないので、事前に問い合わせた方がいいかもしれない。また、A-thingの方から聞いた話では、神楽坂のAyumi Galleryで個展があるとおそわったのだけれども、これは情報がわからない。


●井上実展