こうの史代の「長い道」はホラー漫画だ。この言切りは無理があるだろうか。実際、この漫画はいろんな技法が試されていて、かなり多面的だと思う。僕がこの漫画をホラーだと言いたくなったのは、「長い道」にいくつか差し挟まれているホラー的構成をもった挿話を拾い上げてのことではない。この漫画の底にある、夫婦というものへの、こうの氏のアプローチを指して「ホラー」といいたいのだ。それは、既成の漫画や映画、小説の「ホラー」というジャンルからはずれるかもしれない。 gooの辞書で調べると出てくる

hor・ror :━━ n. 恐怖; (the 〜s) たいへんな悲しみ[悩み], 身震い; 嫌悪(けんお); 恐ろしい物[人]

こういった「おそろしさ」を男女というものの基底におきながら、なおかつそれを受け入れてゆくような人の在り方が描かれたのが「長い道」という漫画なのだと思う。


具体的に作品を見て行くと、「おそろしさ」はこの漫画のいたるところに顔を出す。第一話「夜の道」で他の女の臭いをつけて帰ってきた荘介の後ろに、扉を開けてぬっとあらわれる道の顔は穏やかだが、このような他人の存在/出現 の「おそろしさ」は、ゆずれない個人的な領域を相互に重ねざるを得ない夫婦という形にとって、不可避で背骨を這い上がるような切実さとしてある。そしてその「おそろしさ」は、道が最初に登場する単行本4P4コマ目ではなくキスマークのついた服をあらわにする荘介を背後から見る7コマ目により深く描かれている。もちろん道が全てをおみとおしだ、というような事ではない。背中一つ挟んだ他人の不可知性、そしてなお共にある夫婦というものを指してのことだ。第二話「早春の怪談」が文字どおり怪談形式なのはむしろギャグの手法の延長なのであって、この話がホラーなのだと思えるのはもっと細かいところだ。荘介が見ない、考えないで済ましている経済的困窮を引受けさせられている道が、怪談“ネタ”に見せ掛けて通帳残高をおもむろに突き出す瞬間、9P4コマ目がホラーとなっていて、一見軽妙な変わり者夫婦の掛け合い話となっている全体の構造にひそまされた二人の間の淵が、この漫画全体の基調音となっている。


「おそろしさ」を描きながら、それが最後にはやや緩いギャグとなるという構造は「長い道」では何度も反復される。オチだけを見てこの作品を「ほのぼの夫婦漫画」と読んでしまうことはできない。荘介と道の間に開いた深い淵が表面的に冗談に解消されてゆくことで、これらの物語りは、より生々しい「おそろしさ」に触れる。荘介と道の間にセックスがないことが示された第9話「してません!」で、深夜並んだ布団で道に背中を向けた荘介が「というか おれとやりたいかい」と道に問い掛けると、道はおもむろに起きあがって包丁を研ぐ。ギャグ的落ちを作るための「なすを切ったから忘れないうちに研いでおこうと思いまして」という台詞はもちろん嘘なのであって、荘介が感じたように道はあるおそろしさをここで示している。この後意外なくらい早く第19話「やった!」でこの二人は酒のいきおいによって性交渉を持つが、この回でも「今後半年は手を出さないで下さい」という置き手紙が、梅酒作りのことに擬装させた道の本音として機能する(性がなにかしらつきまとう夫婦というものの中での、道の性への触れ方は、この漫画に重要な骨格を与える)。


冗談を描くことでおそろしさが描かれるように、「長い道」では空想が描かれることで取り替え不可能な現実が描かれる。雨の水を境界線として鏡面世界が拡がる幻想物語り、第18話「水鏡」では、水の向こうに広がる豊かな生活の中の道の表情、59P3コマ目の道は、どこか腑に落ちない顔をしている。そして増水した川面を見る「現実」の道は「やっぱり荘介どのは右利きのほうが落ち着きますね」と言うのだが、ではこの道が現実の、道の全てなのかといえばそうではない(タッチをよく見よ)。この台詞に示される、「水鏡」での最後の肯定的印象は、単行本書き下ろしと思える61Pのカットによって突き放される。傘に隠れて顔の見えない道が見ているのは、空想世界でも仮染めの安心感のある荘介との関係でもない、もっと「おそろしい」ものの気配だ。


雨に煙る薮医者の看板、「野鳥のヒナを拾ったら近くの木にとまらせてやろう/親が向かえにくるからね!」の言葉を背景に立つ道は、素足にサンダルをはき、その足はやや開かれ完全に止まっている。躍動感ある足を描くこうの氏の絵としては、その静止は際立って見える。背中はかすかに丸まり、傘の角度はうつむく頭部を連想させる。道がここで見ているものは、豊かだが腑に落ちない荘介のいる世界でも、貧しいながら安心感ある現実の荘介のいる世界でもない。「長い道」で描かれるファンタジックな世界では、「楽しさ」が描かれているのでは無く、そのような世界ではない今、「こうなった現在」の圧倒的な不動性が描かれている。どこかの分岐点で「こうではない今」がありえたのかもしれないにも関わらず、決して取り替えのきかない今があるからこそ、様々な空想世界が要請される。


だが、「長い道」の深度は、そこにとどまらない。すぐ隣にいる存在の不可知性、取り替え不可能な現実の不動性が、微妙な冗談にそっと隠される日常の、薄皮一枚下にある残酷さを内包しながら、なおそのことを受け入れていかなければ今日という一日を生きてはいけない荘介と道の「許し」の在り方が描かれているのがこの作品だとも思える。


道の不可知な部分とは、例えば過去の恋人・竹林との記憶と追慕に繋がり、荘介においては切実にどこにもいない理想の女性を求め続け、繰り返し女性を捨ててゆく姿にあらわれる。道は20話「貧乏神!」で浮気を繰り返す荘介の願いがかなったら「シアワセになったかなぁと心配しなくてすむもの/竹林どのの時みたいに」と荘介に言う。普段誰とでも「ですね」「ですよ」と丁寧語で会話する(誰との間にも距離を持とうとする)道は、32話「けんか傘」で荘介に竹林の名が記されたボロ傘を今でも大事に持っている事を突っ込まれ「お前 竹林賢二がこのへんに住んでんの知ってたんじゃねぇの?」と問われて、雨に濡れながら「そうよ」と答える。荘介は、今度こそ長く帰らないと決めた愛人の元で幸福をふりまきながら、結局彼女を捨てて帰ってくる(別れ際の愛人の背中に注目)。この二人の(互いに)「見えない」残酷さ/悲しみは、けして共有できないし肩代わり不可能なものだ。


決して許すことができないことを許すことが「許し」ならば、この作品に描かれた「許し」は、ほのぼのどころか苛酷なものとしてある。42話「道草」での「わたしもシアワセになっていいのですよね?」という道の呼び掛けは、許しを乞う言葉に聞こえる。誰よりも道を許せないでいたのは道自身なのだ。この道の許しの前提には、なによりも竹林への「許し」があり、荘介への「許し」がある。それらの「許すことができないことを許す」ことをふまえて、「わたしもシアワセになっていいのですよね?」という言葉がある。この話しで、道が転んで玉子を割ってしまうほどに勇躍して駆け出すカットには、許された悦びがあるというよりは、許すことを覚悟した「身震い」がある気がする。


最終話近く、以前は「半年は手を出さないで下さい」と書いた、荘介の妹にはいきなり口付けしながら荘介自身とは手が触れるだけで慌てていた道が、荘介からの口付けをゆるやかに受け止めるシーンは、単純な幸福感に満ちたものでもなければ、哀しいだけのものでもない。心の死後の世界にいた道が性/生の予感を「おそろしさ」とともに受け止めている。「道草」で竹林が娘のいる未亡人との再婚を決めたと聞いた時、竹林と向き合う道のP158-159の見開きの構図に、そっとかつての二人に重なるような高校生の恋人どうしが描かれた情景には、竹林と道の道のり、過去だけでなく、高校生の恋人どうしの、真直ぐには辿れないのであろう未来も描かれている。


「長い道」には、ほのぼのという言葉とは無縁なものがある。しかし、同時にこうの氏によって描かれた、無名の日常の上にある、ある種の肯定的感覚を否定する必要はないのだろう。肯定するということに潜むこわさ、ことに夫婦という、不自然で人工的な形式でありながら「普通の形式」であることの源にあるズレが、丹念に描かれているのが「長い道」なのだと言い換えてもいい。この物語りには終わりがない。荘介はいつまでも、どこにもいない女性(母性)への餓えを抱え続けるだろうし、道は「こなかった未来」を抱え続けるだろう。こうの氏がえがく、荘介と道の日々の紡ぎだしとは不断の「許し」の終わり無い過程であり、その営みはいつ中断しても不思議ではない。「ほのぼのとした世界」が荘介と道を安定的に受け入れたのではない。荘介と道の「丁寧な日常」が許しをかろうじて繋げていく。そのような許しが生成してしまった、それがなければ1日を終えることができなくなった夫婦というもののの在り方に「身震い」を覚えるとしたら、やはり「長い道」は広い意味でのホラーなのだと思う。