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ティム・バートンの新作映画「チャーリーとチョコレート工場」を見てきた。ネタバレありなので、これから見る予定の人は注意してください。
「お話」はしごく単純で、貧しいながらこころ優しい少年が、従業員が一人もいないという謎のチョコレート工場の見学会に招待され、そこで奇想天外な工場と経営者ウォンカの秘密に触れていく、というもの。
この映画は傑作「ビッグフィッシュ」に続く「親子」の物語りだ。だが、そこにこだわる必要を感じない。子供達にとって「夢のチョコレート工場」が、ウォンカの幼少時代のトラウマを原因とした「クソガキ懲罰工場」となっていくというシニカルなストーリー、しかもウォンカ自体が「クソガキ」であって、いわば「子供のケンカ」映画となって進んでいくのだが(ちなみに一方的に勝っていくウォンカを唯一「攻撃」する子供は、悪意なくウォンカのトラウマを突く主人公の少年だ)、そこに付け足された「抑圧からの解放」と「家族が一番大事なのだ」というカンタンな結末は、「チャーリーとチョコレート工場」におけるストーリーが、いわば「映画」のためのプレテキストであることしか示さない。たとえばこの映画を心理分析的に見てもほとんど何も出てこないだろうし、古きよき大家族を称揚する「家族原理主義」映画だと言ってみても、そんなものをティム・バートン自身がほとんど信じていないことは、家族を愛している主役の少年が、実はクソガキ達に比べてリアリティがなく話を進めるための役回りでしかないことに現れている。
もっとも魅力的なのはウンパ・ルンパ族だ。未開のジャングルの奇妙な部族であるウンパ・ルンパ族は、身長がみな75cmしかなく、みな同じ顔と体型をしていて、男女の区別すらつかない。いつも集団で行動していて、ことあるごとに歌って躍る。この小さな人々が同じ格好で大量に出てきて、ものすごく下らない振り付けの躍りをみんなでやって、4人いるクソガキ共が「罰」を受けるところで彼らの罪を列挙する「ミュージカル」をやるのだが、このシーンがほとんどマルチプル・アートというか、ゆるいマスゲームを見ているような可笑しさで、恐らくティム・バートンもここに最も力を入れている。
映画におけるミュージカルの「不自然さ」をギャグにしているものとしては、例えばウッディ・アレンの「世界中がアイ・ラヴ・ユー」があるけれども、「チャーリーとチョコレート工場」では、それを上記のような「小人」によるマルチプル・ショー(という言葉があるかどうか不明だが)にしているところが特異だ。ウンパ・ルンパ族を一人でこなした俳優の、一度の演技を単純にコピーしたのではなく、タイミングや表情を微妙に変えて何度も撮影し、それを重ねてこの驚くべき「バカバカしさ」を作り上げたという念の入れようにティム・バートンらしい完全主義が見えるが、そのような「完全さ」はこの映画の全編を覆っている。
工場の外観から煙突を通して中へ入り込み、チョコレートの製造工程を見せるオープニングに始まって、この映画ではほとんど全てのシーンが「正確」に撮られている。何に対して「正確」なのかといえば、それはティム・バートンの「イメージ」に対してだろう。この映画では「なんとなく」撮られたカットがほとんど見受けられない。必ずティム・バートンの「こうであるべきだ」というくっきりとしたイメージが据えられていて、俳優からカメラからCGから照明から、あらゆる要素がその「イメージ」に対して「正確」であることを要請されている。実際、極力使用を控えられたというCG/デジタル映像使用部分が素晴らしいのは、この「正確」さが実現されているからだ。単純に視覚的なインパクトとか技術的な高度さなら、この映画のものより遥かに「高スペックなCG」というのはあるだろうが、ここまで「存在理由のあるCG」というのは貴重なのではないか。表面のテクスチャーの再現性だけとれば、この映画のCGはむしろ安っぽいくらいだし、ウンパ・ルンパ族を初めとするデジタル合成も時にはチャチに見えたりするのだが、それはむしろ意図的にチャチに撮られているのであって、そのことがこの映画の、おもちゃ売場で大騒ぎしていくような躍動感に繋がっている。マルチプル・ショーという意味では、「ナッツの殻向き係」であるリスの群れの「労働」シーンがあるが、ここでもティム・バートンの「完全さ」は発揮されている。
リスの群れがクソガキの一人である少女をダストシュートの穴に放り込むシーンでは、「チャーリーとチョコレート工場」のもうひとつの軸が示される。このシークエンスでは、視点がリスにおかれ少女が巨大に見える。ガリバーが小人の国に打ち上げられ捕獲された話や、アリスが大きくなる薬を飲んでしまった話を思い起こさせるような「体の変容」は、「チョコレート工場」が、身体(感覚)についての映画であることを示している。小人のウンパ・ルンパ族、ベリーになるガムを噛んでボール状に膨らむ少女、物質転送マシンによって小形化し、その後飴のばし機でぺらぺらにされる少年、ウォンカの回想シーンでの大袈裟な歯の矯正機具などにみられる「身体を変容させていく」ことは、「ビッグフィッシュ」や「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」などを通して過去バートン作品で繰り返し扱われてきたモチーフだけど、このリスのシーンでは、物理的なからだの大小や欠損、特殊な機具などが使われず、あくまで視点の変更によって少女が巨大化している点が興味深い。
「クソガキばーかばーか、お前のかあちゃんデベソ」というシーンの連続で、「ファミリー映画」を期待して(いや間違っていないのだが)来た家族連れなどが見たら、なかなかキッツイ皮肉の効いたものになるのだが、そう見ればティム・バートンが「ウォンカ」と化していて、観客が「懲罰されるクソガキ」の立場におかれ、この映画全体が「チョコレート工場=クソガキ懲罰工場」として「機能」してしまう可能性もある。そういった入れ子構造、「そして誰もいなくなった」的な、繰り返されるエピソード、キューブリックやヒッチコックのパロディ、小人やリスの「マルチプル・ショー」といった、反復・反転によるギャグが、軽快にくり出されているのが「チャーリーとチョコレート工場」だと思えた。