三鷹市美術ギャラリー/Colorful温泉 絵画の湯展(2)
(1)で充実したコレクションと書いたが、さすがに体系的とまでは言いがたい。それでも一定の作品数が揃っていて、一応作家の思考の展開が追えるだけの流れがあるのが高松次郎の作品群だ。生前は三鷹在住だったらしい。1960年の水彩の仕事から1968年-72年の平面の仕事、1984年のシルクスクリーンの仕事が概観でき、興味深かった。僕はこの作家の作品をまとめて見るのは初めてで、知識もないので怪しいことを書くが、そこを注意して読んで下さい。いつもの事だけど。
僕の目に最初にひっかかったのが、1972年に行われている「カンバスの複合体」のシリーズだ。二つのキャンバスを横につなげ、その中央に跨ぐように朱の絵の具の線が引かれているものがある。恐らく左から右に引かれたと思えるその筆致は、わずかに開いたつなぎ目の隙間で盛り上がり、隙間の側面にも痕跡を残しながら左右に均等な長さで置かれている。二つのキャンバスが、線によって連続させられながら同時に一体化せず、その断絶も示している。小さいもので、やや経年劣化している。
同じタイトルで、今度は上下に3つのキャンバスを繋げたものもある。上から黄色、マゼンタっぽい赤、再び黄色と塗り分けられたキャンバスは、その境目で筆によって混色され、幅の狭いグラデーションとなっている。絵の具は厚塗りで、全体にフラットな表面だが、ナイフかへらで塗られたらしいマチエールは、わずかな厚みの差があり絵の具の粘度を感受させる。また、同様の構造で上下2枚、上に黄、下に青の色面があるものがある。これも、2色の接線で絵の具が筆のタッチで繋げられている。この作品は、黄色面の右へりに朱の絵の具がついているが、この意図はわからない。
3点とも、キャンバス側面のタックス(画布をとめる釘)は乱れて打たれている。キャンバスをつなげる金具は薄く平らなものだが、これをとめるネジか釘(どちらかはわからない)も、同様に乱れている。ここでキャンバスはその存在を強調されている。基底材の露出、平面への還元的傾向はロバート・ライマンを想起させるが、ここで高松次郎が考えているのは文字どおり複合、あるいは連結ということで、ライマンの問題意識とは位相を異にしているだろう。複数のキャンバスが連結され連続しながら、そのことによって逆に分裂、個別性が露になり、絵画のフレームや単一性、イメージの問題が思考されているように思える。横に連結されたものも、縦に連結されたものも、画面に現れる像は横のストライプと言えるが、そこには象徴性もないし、風景を匂わせるものもない。深奥空間も作られていない。むしろ山田正亮に近い検証作業のような印象がある。
この作品達が楽しい感じがするのは、ラフなところに理由があると思う。あからさまに不揃いに打たれたタックスはリズミカルで工作的感覚がある。明るい黄やマゼンタ、青などの色彩のぺったりとした絵の具はポップでレゴ・ブロックのようでもありながら、同時に粘り気やどろどろ感があり、泥遊びの触感や菓子のクリーム、紅イモなども連想させる。そして、絵の内容で行われている事が「実験」であって、立派な「タブロー」っぽくない。サイズが小さいことも「試しにやってみた」という気軽な雰囲気を産んでいる。ミニマリスティックでありながら、そういた作品にありがちなシリアスさがない。「子供」という展覧会の主題?にひっぱられ過ぎだ、ということはあるだろうか?もちろん前後の流れを見れば、高松次郎が相応の根拠をもってこれらの作品を制作したことは分かるが、こういった展示会場に置かれた時に見えてくる側面というものは、やはりこの作品達に内在していたと見ていいのではないか。
先行する1968年に制作された「波」2作も連続して展示されているが、これは個々の作品としてクレジットされており、金具もない。工業製品のような、つるつるした仕上がりで、そこにマスキングで描かれた曲線が歪んだ方眼状に描かれている。この線とグラデーションで、簡略化されたプールの表面のような、擬似的な凹凸を作る。パネルにアクリルで作られた平滑な面が波打って見える、その齟齬が問題になっているが、1960年頃には、不定形な形象がからみ合うような水彩画を描いていた高松氏が、どこでこのような手ワザの後退を行ったのかは分からない。ステラなどの受容があったのかもしれない。1963年の半レリーフ的作品「点」では既にコンセプチュアルな思考が見てとれるが、ここにはまだ、混沌とした意識や触覚、触感への関心が覗いている(この作品の「黒々とした」あり方はやや特異に見える)。
高松次郎の関心が、平面というよりはそれを感受する視線にあった事がわかるのが1970年のリトグラフ(オフセット)作品「THESE THREE WORDS」あるいは「この七つの文字」で、この有名な作品について、その自己言及的性格をここで改めて書く必要は感じない。僕がここで書きたいのは、この作品を支えているのが、刷りの傷、荒れたコピーのような質と、紙の手触り、マチエールにあるということだ。標本箱のような額装も含めて、ここではもの派と平行するような、物質の現れが見てとれる。李禹煥の作品などがある展示場では、むしろイメージが強く浮き上がっている李の作品よりも高松次郎の方が遥かにもの派的に見えてくる。
錯視が全面に出てきている1976年の「釘の影」よりも絵画的な感じがするのが大形のキャンバス(162cm×112cm)による「平面上の空間」(1982年)だ。その白と緑がかったブルーグレーで織り成されるボカシのタッチによって、つい「良い感じの絵」だと思ってしまう。だが、もちろんこのボカシは意識的なもので、画面にわずかに描かれた直線と三角形、斜線で遠近法的な奥行きを作るだけでなく、ボカシで空気遠近法もそ上にあげようとしているわけで、作家は「良い感じの絵」を描こうとしているのではないだろう。それでも、この絵は「タッチ」に少し消極的になっていた高松次郎の、ある転換を示しているのかもしれない。この展覧会の作品だけではわからないが、1980年代に入って古代神話や宮沢賢治などを参照しながらはっきりとストロークの見えるシルクスクリーン(それでも版を間に挟んでいるのだけど)を制作しはじめる事を思うと、この作品の「良い感じ」には、意味があるように見える。
1984年のシルクの作品群は、なぜ中期にあれだけモダニズム的課題を追っかけていた作家が急に日本書紀とかに行ってしまうのだろうかとため息が出る。だけど、作品それ自体はめちゃくちゃ弛緩したものではない。「古事記、日本書紀より 1 がらんどうがあった」では、白い紙の上に白のタッチを置き、そこにわずかな曲線を配して四隅と右上、左下に版下のトンボのような十字が残る。この作家が単純な神話の挿し絵を描いているわけではないことがうかがえる。「老人力」とか言い出したり、意味不明のインスタレーションをしてみせたりする赤瀬川原平や中西夏之の「晩年」よりはまだ良い作品を、高松次郎はその最終期に制作していたのではないか。ハイレッド・センターの一員として名前だけは知られながら、意外とその実作を見る機会がない中で、この展覧会での高松次郎の作品の展観は貴重だと思える。
展覧会情報は、昨日のエントリを参照のこと。