これも終わってしまった展覧会だが、目白のギャラリーポポタムで、わだときわミニ展を見てきた。このtxtのアップロードに、展示を見てから1週間もかかってしまったのは理由がある。言葉にするのに時間が必要な作品群だったのだ。わだ氏については今年の6月の「あおによし」展の時、古谷利裕氏がid:furuyatoshihiro:20050619で

この作家の面白さは「普通に良い作品」には納まらないところにこそあるのではないかと思う。

と書いていて、わだ氏の作品はほぼ初見だった僕としては、そうなのかなぁと思うだけだったのだけど(参考:id:eyck:20050614)、今回の展示で古谷氏の言わんとすることがやや腑に落ちた感じがした。


リトグラフの作品だ。どれもわだ氏が自ら漉いた紙に刷られている。「黒タンス」「赤タンス」といった作品が最も特徴的だが、一目みて具体的な物や風景をイメージさせるものはない。全面にわたってダーマトあるいはクレヨンで長いストロークがぐんぐんと引かれ、そこに作品によっては筆で置かれたタッチや大きな色面の版が重ねられている。深奥空間のようなものも感じられない。ただただ、作家の腕を中心とした身体の運動が定着されている。全体に明度が低い。紙が漂白されておらず、ハイライトの白がないこともあるが、画面が縦横に走るストロークや色面に覆われていることにもよる。その、画面の大きさに対するストロークの「長さ」が、とても長い感じがするのが印象的だ。なにか、画面の大きさ、フレームが存しないかのように大きく長くストロークが刻まれる。紙の四隅がカットされず漉かれたままの状態であることも、ふと画面/フレームがうっすらと消えていくような感覚を生んでいるのかもしれない。


見ようによっては子供が床や壁になんの作品意識も持たずに、クレヨンや絵の具でガンガン悪戯描きしたものを(紙を漉く時のように)ふとすくいあげた様にも見える。自分が子供の頃、ロウ石で道路や駐車場に意識的な枠組みもなく延々いろんなものを描いた経験も思い出された。要は、わだ氏の作品には「作品」性が希薄に見えて、ほとんど混沌一歩手前、ぎりぎりのところまで「ただ、かく」という行為で溢れかえっているように感じられるのだ。それは描くでも、書くでもない、「かく」としか言い様のないもので、確かに『この作家の面白さは「普通に良い作品」には納まらない』という古谷氏の言葉が合う。


いわば、画家としてのリミット、「普通に良い作品」に治めようとする目配せというものが外れている。あるいは「普通に良い作品」という感覚とは別の水準のイメージがわだ氏を駆動させている。この絵に一番驚き、おののくのは自ら絵を描くものではないか。紙の組成を漉き上げ=組上げていく事まで考えると、染め/織り/プリントが一体化したテキスタイルの仕事も想起させるが、もちろん一般にテキスタイル・デザインは最終的なフレーム(用途)が決まっている。わだときわ氏の作品にはそれがない。


画面が単なる混沌でしかないなら、話は簡単になる。わだ氏の作品が、しかしそれでも尚「面白い」と感じられるのは、けっして「野性的な画家/画家の野生」が横溢しているからではない。そのような絵は単純でイメージが限定されていて、退屈になる。わだ氏の作品には、何か終わらないもの、汲み尽くし得ない一種異様なものがある。この「わだときわミニ展」で見ることのできた作品群を支えているのは、紙の組成、植物の繊維を分解(こうぞやみつまたを煮る)してから再度編み上げ(漉く)、土や雲母などを封入しながら基底となる紙をつくり出し、そこに前述のような一見奔放と思えるストロークリトグラフという技法で定着させていくという、一連のプロセスの全体が「なにかを描く」事として認識され、実行されていることによるのだろう。


ここで「描くと言う事」が「紙の制作やリトグラフといった構築性」つまり技術と工程によって成り立っている秩序によって支えられている、と言ってしまうと大きく間違えてしまう気がする。古谷氏が先に引用した文章の続きで『わだ氏の作品の面白さは、主にその手仕事の領域から生み出されている』と書いていることはここを指しているのかと想像するのだけど、わだ氏においては、紙を漉くこともストロークを引くこともそれを刷りとることも、全てが一体となっているのではないか。紙の制作から刷りあげまでのすべてを抜きに、いかなる作品もありはしないというのが、わだときわという作家の「姿勢」であり、その姿勢に込められた悦びの丁寧さが、わだ氏の作品を支えていると思える。推測を重ねるのは危険だが、既成の紙に描いたり、リトの刷りをプロに任せてしまったとしたら、わだ氏の作品にある悦びはほとんど消えてしまう気がする。


今回の作品も、その刷りの技術は確かだ。自由な描画がその刷りの技術によって切り出されている、みたいな事を僕は前回書いたけれどもそうではなくて、わだ氏の作品では紙漉きも刷り上げも悦びをもって「伸びやかに」行われており、描く所作も紙を作る事、刷り取る事と同じ「丁寧さ」で行われているのだろう。そして、そこには「作品」というある枠組みをオーバーしてゆく、大きなイマジネーションがあるように見える。イマジネーション、あるいは知性というものが、本来どこか「おそろしい」ものを含んでいるものだとしたら、わだときわ氏は言葉の基本的な意味で知的なのだと言いたくなるが、そのような形容も蛇足だ。その作品には、やっぱり『「普通に良い作品」には納まらない』という言葉が一番フィットしている気がした。