横浜トリエンナーレ/サーカスは回転したか(1)

横浜トリエンナーレに行ってきた。個人的にはあまり面白い経験とは言えなかった。メイン会場のみ、それもそこにある作品全部を見たわけではないので、上記のような限定的な言い方になるのだが、正直なところ全ての作品を丹念に見てみたくなる「誘惑」に欠けていたというのが正直な感想。

全体的な事は後まわし。とりあえずは個別の作品について、見てきたものについてのみ書く。国際的アートフェスティバルというカンバンを掲げて行われたこの「横浜トリエンナーレ」は、意外なくらい、その展示自体に対する言説が少ない印象があるんですけど気のせいですか。なんだか事前のドタバタを巡る言葉ばっかりで、後がないのだ。やや半端かもしれないが、このようなエントリも書かれないよりはマシではないかと思って書くことにした。書かれてない作家の作品は、要するに「見て」ないということでよろしく。


●ルック・デルー
横トリの看板というか、入場門というか。輸送用のコンテナをアーチに組みあげた作品。鉄の大きな直方体を軽やかに見せているところは魅力的だと思う。スケール的にも、いわゆる公園にあるパブリック・アートのサイズ感覚を軽く超えていて、こういった催しでもなければ設置不可能だっただろう。コンテナという、誰でも見たことのある素材を異化させ、同時にそれがある場所も異化し、それを見る人自体も異化するというもので、「日常からの跳躍」というメッセージには相応しい。


●ダニエル・ビュラン
メイン会場は山下公園前の埠頭の先にある倉庫2棟なのだけど、そこへと至る長い道にタンカンを組んでアーチを延々連続させ、歩く観客の頭上に小さな三角の旗を無数にはためかせる作品。赤と白のストライプのプロムナード、あるいはトンネル?といった感触。

真っ青な空にはためく赤と白の色彩が美しい。陸から海への風が、恐らく日のあるうちは常に吹いているのだろうこの場所の地理+気象を体感させる作品になっている。流石に手慣れているなーという感想をもつ。また、このはためく旗の音がパタパタと長い道全体に響き渡っていて、この音響まで計算されているならスゴイ。秋から冬にかけての空の高さも強く強調されていて、タンカンによるラフな見かけに反してち密なインスタレーションになっていた。ただ、帰りは向い風を考えざるをえず、足は自然に送迎バスに向かった。


●池永慶一
倉庫に入った所にいきなりある、タンカンによる巨大構造物。なんの事はない、上がって降りるだけの橋なのだが、一応越境とか「超える」といったメッセージがあるのだろう。しかし、僕が一番感心したのは「タンカン」という素材をこうも綺麗に組みあげた物は初めて見た、ということだ。そのトラス自体が非常に美しい。演劇をやっていた時、さんざんこのタンカンをつかって仮設劇場を組んでいた僕としては、そんな所に感動してしまった。

で、ここまでで極めて「仮設」感が強い大物が3連発となっていて、すっかり「川俣正サーカス」かと思えたのだけど、この後は仮設というよりは「ハリボテ」に限り無く近付いていく。


●屋代敏博
会場内に点在する、三脚に固定されたオペラグラス。覗いてみると、会場にない筈の立体物が「回転」している。立体錯視の原理を応用した作品。床の上で、台の上で、ないはずの物が音なく回転している像が見える。異物の出現というか、異世界の無気味なマシンの侵入というか。設置の高さを極端に低くしたりして、子供向けのようでもありながら大人に身体を意識させる仕掛けでもある。

あえてシンプルな構造のトリックを用い、その原理も理解させるような説明的(教育的)な展示もあったりして、妙に謎めかせない姿勢は良いなと思った。でも4つ目くらいで飽きた。


●へディ・ハリアント
粉ミルクの空き缶を開いて繋げて作られた、アジア農村部で見られるのだろう農耕用の牛が、子供の頭の散乱した大きな「輪」を引いている。「輪」の中にはほ乳瓶の人工乳首がたくさんついている。

出た。開発の進むアジアから発信される現代社会批判芸術。日本や欧米から流れ込む工業化・産業化と工業製品が、豊かな自然と調和しながら生きるアジアの共同体を破壊する!これでいいのか諸君!てなアレ。この作品の特質としては「母乳」というものが経済に侵されている(しかも侵してるのは日本のメーカーだよジャパニーズ!)、という、とても身体感覚に根ざしたプレゼンテーションを行っているところ。これは残酷な子供の頭部も含めて、親、特に母親のカラダに、しかもその身体の内部に向けてメッセージを発していて、そこはとても上手だとは思う。しかし、果たしてこのような批判は有効なのだろうか?

無力な批判/無力な芸術を寛大に保護しながら、そのことを担保に現在の資本は向かう所敵無しで事態を進行させていく。この作家の意図に反して、このようなアートは経済の暴力のアリバイ工作の一端となる。いかんよこれでは。単純に逆効果。


高松次郎
ビル工事の「囲い」にハイレッド・センターで有名な故・高松次郎に錯視的な影絵を描かせた作品の再制作。白いパネルに様々な姿の町行く人の影がある。トロンプ・ルイユの現代版で、当時1日で撤去された「今はもう見られない有名作」なので、そういう意味では貴重。

ただ、せっかくこのように手間ひまかけて再現したのだから(担当した東京芸大の方、お疲れさまでした)、もう一工夫してもいいと思った。照明を調整して、これを見る会場の観客の影もこの作品に重なるようにしたほうが、ずっと面白かったのではないか?現場では、ほとんど上から明かりがあたっていて、この壁面に自分の影を写そうとおもうと30cmくらいまで近付かないといけないし、それでも下にちょこっと、である。離れてみて、前にいる客の影は作品になく、(描かれた)影に相当する人はどこにもいない、というのが醍醐味だよ、と言う事ならわかるが、ここまで「観客参加」を全面に出した展覧会なのだから、そこは開き直って「面白さ優先」でもよかったんじゃないかとオモウ。


●オン・ケンセン他
複数の作家を組織して、主に東南アジアの社会問題を素材にいくつかのインスタレーションとワークショップを展示/開催。

がぜん学園祭ムード。安いパネルにアジアの衣装や女性の下着、そこに見られる植民地文化の混入や政治状況の反映をぺらりとした紙にプリントして写真も掲示、とくれば、ほとんど大学のサークル発表に近くなる。というかそのもの。

ここまで文化人類学マンマになってくれれば、なまじな「文化人類学的美術」よりも関心がもてる。研究機関への募金箱?まで設置していて、そういった活動事態は有意義なのかもしれないし反対する気もない。実際、バナナだかパイナップルだかの葉から繊維を取り出して服にするとか、そういう話は素直に面白かった。

しかし、では「アート」とはなんなのか?それをアートとして提出する事とは何なのか。社会問題に目を向けさせるために造形的要素が必要、というハンス・ハーケ的な意志があるなら、このビジュアルはないだろう。学園祭的=ラフな展示は川俣正氏の趣味というか意図なのだろうか?だとしたら、これは、失敗だと思う。

映像作品は、紙の上にアジアの村の模型があり、そこにビルだの広告だのの「西欧産業」が流入してきてワヤクチャにされる、とかいう類型的なものだったりするので、やはりそういうのにくらべれば単なる研究発表のが良い。


すいません僕の集中力は前半でつきてます。この後は期待しないでください。六本木クロッシングの時みたいながんばりは見せません。続きは明日。