観光・イタリアルネサンス(9)

ボッティチェリ
ウフィッツィ14室でボッティチェリの「春」。1481年-1482年に描かれたとされている。横314cm×縦203cmの作品で、板にテンペラで描かれている。かなりの大きさで、物理的な重量を想像させもするのだが、なぜか特殊な浮遊感、不安定感がある。


画面上部を茂る葉が覆い、画面中段を、多くの樹木が林立している。画面中ごろから下部にかけて地面がある。これらは全てほぼ同じような濃緑色で描かれており、画面全体の明度を下げている。画面中段に縦に並列する樹木のストライプの間にはやや明るい青が覗いていて、これが森の向こうに広がる空間を示すが、濃密な森と比べてそこには(画面向かって右端に覗く水平線以外)何もない。上部には明度は低いが彩度は高いオレンジ色で果実が点在させられ、画面中段から下部にかけては微細な描写で様々な花が描かれている。


ほぼ中央に首をかしげ薄いレースの衣装を来た女神像が描かれる。その向かって右隣にはやや位置を下げて花で覆われた服を身につけた花の女神がいる。その女神に倒れ重なるように、大きく右上を振仰ぎ口から花をこぼれさせている女性像がある。見上げた顔に迫るように、右辺から青い肌をした風の神が樹木の間を通って描かれる。この風の神に追われた女性は薄い布が透けてほぼ裸身であり、花で覆われた衣装の女神は成熟した顔だちをしている。この花の女神の描写は生々しく、デッサンに関してはマザッチオより後退しやや様式的な人物を描く事の多いボッティチェリの中でも特異で、明らかに実在の人物をモデルにしていると思える。中央にいる女神に対して過剰な書き込みと相まって、画面のバランスを壊している。


中央女神を挟んで反対側、向かって左手にはやはり薄い布で裸身を包んだ3人の女性像がある。それぞれに手を繋ぎあい、左右の二人はほぼ直上からわずかに左にずれたところに繋いだ手を延ばしている。挟まれた1人は背中を見せ左を向いている。画面左端には若い男性が左上方の果実に手を延ばし、その手許を見ている。中央上辺には、目隠しをされたキューピットが手を繋ぎあう三美神に向かって矢を放とうとしている。


全ての描写は主要な人物から細部の花/果実まで、極めて精細に描かれている。そしてこのことが、「春」を奇妙な絵にしている。画面中央にいる女神、向かって右手の群像、左手の三美神、左端の男性像、キューピットはそれぞれ独立している。右手の花の女神や天使、男性が各個にトリミングされプリントされた印刷物をよくみかけるが、そのようなトリミングがしやすい、というよりはトリミングしたほうが「まとまり」が出る事を考えると、その関係の薄さがはっきりしている。


背景の森は暗いが、登場人物はその暗さと乖離した明るさで描かれ、足下に影もない。このことから、別の場所に描かれた人物が個別に切り抜かれ森に張り付けられたように見える。花や果実も同様で、森に生えたり成ったりしているというよりは、どこかで摘み取られたものが振りまかれたように見える。樹木の隙間から見える空間は空虚で濃密な森と地続きとは見えない。これも切り抜かれた森が明るい地に、影絵のように張られたようになっている。セル画が重ねられたような、複数レイヤーで描かれているのが「春」と言える。


この複数レイヤーにより「春」は画面がはらはらと分離しそうな浮遊感、不安定感をもつ。実際の作品は、間近で見れば平滑な仕上がりでテンペラ特有の堅牢な印象を与えもするのだが、やや離れてみればこの各要素の剥離しそうな感じは確かに感じられる。むしろ、重く堅固な板絵の存在感と、その作品内容の有り様のちぐはぐさが目立つ。また浮遊感は、別の水準でも感知される。描かれた人物のうち、三美神は上に伸び上がり踵が上がっている。風の神に追われる女性は地に足がついていない。風の神、キューピットは宙に浮いている。歩みを見せる花の女神、若い男性の足下の角度も向かって右斜上方に傾斜していて、はっきりと地に立っている人物は中央の女神だけだが、この女神は高い位置に描かれていて、絵の重心を最も釣り上げている。


画面の構成要素が独立していて焦点が多数あるような絵は、ボッティチェリの師フィリッポ・リッピの「受胎告知」でも見られる事は既に述べた(参考:id:eyck:20060117)が、ボッティチェリの「春」の焦点の分裂が呼び起こすものは極めて心理的なものだ。もう少し踏み込んで言えば心理というものを成り立たせようとしているのが「春」だと言っていい。フィリッポ・リッピの「受胎告知」があからさまで謎のない、推測を成り立たせ様もない程“お約束”な要素を記号的に配置し、ゲーム的に視覚のみを駆動させているのに対して、ボッティチェリの「春」は、各要素の乖離がそれを結び付けたいという欲望を惹起するように組み上げられている。その仕掛けは上記のような不安定さの増幅にある。地面の花の大きさと人物の立ち位置によってのみわずかに奥行きが示され、線遠近法が排除されていること、また横長の構図から、空間は暗示される形になるが、このような暗示は空間構成をこえ「春」の主要な骨格を成している。


分離されたレイヤーは森=暗さで仲立ちされ、互いに無関心で地に足のつかない人物は、しかし当時読解が流行していたギリシャ神話でゆるやかに関係が推測される。分離したものを相互に結び付けようとしながら、その手前で踏み止まっているのがボッティチェリの「春」のようにも見える。そのような踏み止まりが、完成度が高い画面であるにも関わらず観客に欠落感を与え何か埋め合わせたくなる作品となっている。だが、この「春」に何を付け加えても(それが文献による物語り的裏付けであれ、精神分析的解釈であれ)この精緻であればあるほど不安定感を増す作品を安定させることはできない。ボッティチェリの不安定感は単純な狙いではすまない内在的なものと思える。恐らくボッティチェリの生涯でも一番安定していた時期に描かれた「春」にある揺らぎは、作品の物語化で回収できるものではないのではないか。