観光・イタリアルネサンス(23)

●ジオット4(サン・フランチェスコ教会上堂壁画その2)

アッシジ、サン・フランチェスコ教会上堂のジオットの壁画についての続き。僕がこのフレスコ群で気にしているのは、絵の具の塗りと色彩で、これは勿論600年とかの時間を経ているから劣化している。この劣化はけっこう痛々しいもので、「古びの付加価値」とかを感じたりはしない。表面のいろんな場所が剥落し、ことに堅牢ではない描画であったのだろう、前のエントリでの薄い塗りの部分は傷みが激しい。何か、水漏れしてしまった天井のような荒れ方をしている。それでも、というかだからこそ、そこが“薄い”という事はすぐさま了解できる。そして、まさにそこが“薄い”のだ、という事が、画面を(荒れにも関わらず)魅力的にしている。


これは、けして視覚的なものだけではない、どう記述していいのかわからない魅力なのだ。むろん、目で見ているのだから、それは視覚的な事なのだけれども、例えば画面の古び方がシブい、とかいうことではないし、剥落した跡に、なにか触覚的な、古代遺跡とかにある魅力を感じるのでもない。言ってみれば、「ああ、そこを薄く扱ったのだ」という“事実”に、ふわりとした、抽象的としか言えない新鮮さを感じたのだ。抽象的、という語を乱用するのは危険なのだろうけど、それは視覚とか触覚とかからはやや外れた(それも含むと思うけど)、全体的な、あるいは総体的な事柄だと思う(我ながら言い方がよくないと思う)。


こういった「塗りから来る色彩」は、作品を構造的に−という言い方が変ならば骨格的に基礎づけていて、こういう事は、作品が相当劣化しても、ぎりぎり最後までその作品の本質的な魅力を、断片的にでも伝えてくれる。表面が多少剥落し、色が褪せたりしていても、わかるのだ。画材をきちんと扱い、相応に保存されていたものが、日光などで変質したりしても、“骨”が組み上げられている部分というのは、いわば健康に衰える。良い対称物になっているのが主祭壇の周囲を覆うチマブーエの壁画で、これはチマブーエがフレスコの準備をちゃんとしていなかったらしいのだが、画材の組成そのものを間違えているため、健康に衰えず、いわば腐敗していてとうてい本来の魅力が残っているとは言えない*1


このジオットのサン・フランチェスコ教会上堂壁画の塗りからくる色彩を、先のエントリでは思わずマチス的と言ってしまったのだけれども、不用意だっただろうか。まず作品に即して書くべきだと思うけど、例えば「アレッツオからの悪魔の追放」では、画面を二分するように、左右にそれぞれ白い壁に赤い彩が部分的にある建物があり、その間には大きく空を示す青が入り込んでいる。向かって右の建物の上部には、黄色、赤、青、白の様々な色をした塔が並び立ち、その上に黒っぽい褐色の悪魔達が乱れ飛んでいる。画面下辺はひびわれた地面があり、二つの建物の間、青の空に重なるように聖フランチェスコがいる。画面左下にはひざまづく男がいる。この地面とフランチェスコ、ひざまづく男は同系の茶色のバリエで描かれる。右の建物の2つのアーチの中には、それぞれ小さく人が描かれている。


ここでは、建物の白、そこに施された飾りの線や屋根の赤、画面右上の様々な色彩の塔、茶色の地面や人物の色彩が、それぞれに固有のモノ、建物とか服とか地面とか悪魔とかの色を示すものであるのと同時に、色そのもののリズムとして、固有のモノからやや離れ画面を成り立たせている。そして、それらの中でちょっと特別な位置にあるのが空の青で、いわば画面内部の様々な要素を仲立ちして息づかせているのが、この、薄い青なのだ(空はモノではなく固有の色がないことに注意)。薄いことを強調しすぎなのかもしれないが、もちろん、薄いから良い、と言っているのではなくて、しっかりと不透明な白の建物や人物との響きあいによって、この青自体も息づくことになる。


先の国立西洋美術館で見ることができたマチスの「眠る女と静物」では、テーブルに臥して眠る女を囲むように、植物の葉の緑が画面内に点在し、紫のテーブルが伸び、花瓶や窓が描かれる。ここで色彩は、それぞれに固有のモノの色でありながら、そこから乖離して(この距離感がマチス独自のものだけれども)、画面から浮遊している。ジオットのフレスコはこんなに鮮やかではないし、画面の基底の壁のテクスチャが露でザラリとしているし、違うところを上げていけばキリがないが、その、塗りからくる色彩の有り様が、どこかで共通している。なんといっても並べて比べてみたいのが「外套の貸与」とMOMAの「ダンス」で、この両者の「青」の持つ機能は、なんの根拠もないがどこかで通底していると思うし、そのうえで違いも見てみたいと思う。


先のエントリでも書いたが、このサン・フランチェスコ教会上堂壁画は、前半部分に良作が集中していて、後半にいけば行く程僕がこだわっている新鮮さが薄れ、つまらなくなっていく。こういう所に、僕はこの壁画群の「絵画性」を感じてしまう。フレスコというのは基本的に職人的な作業が必要だし、大規模だと助手もたくさん使うから(システィーナの天井を一人で描いたミケランジェロは異常だ)、どうしても工業的な「標準化」が行われるのだけど、この聖フランチェスコ伝では、ものの見事に「描き始め」のイキオイがあり、中盤でバランスのとれた落ち着きがあり*2、後半に硬直化が始まる。


この壁画群の「描かれた順番」は、多分専門家がガッチリ調査しているのだろうから、完全に素人の予断で言っているだけだが、おそらく場面の若い所がジオットによって最初に描かれ、場面の遅い部分になるほど後で描かれたか助手の関与が大きくなっていったのではないか。いずれにせよ、薄い青のフレッシュさは、「質朴な男の尊崇」、「外套の貸与」、「財産の放棄」などに集中している。こう質にバラつきのあるフレスコというのも珍しいので、たとえばサンタ・クローチェ教会のバルディ礼拝堂壁画は、あまり良いとは思わなかったけれど品質は見事に均一だし、カルミネ教会ブランカッチ礼拝堂などは、三人も画家がかわるがわる関わっているのに、その完成度のそろい方は不思議な程だ。当然話は逆なので、そのような平均的な仕上がりが求められるのが教会の壁画なのだろうとおもうけれども。

*1:それでも、チマブーエ独自の塗りが組み上げた、イエス・キリストの身体表現の確固とした感じはかろうじて分かる

*2:「小鳥への説教」などは、このバランスが一番とれている