観光・イタリアルネサンス(24)

●レオナルド・ダ・ビンチ

ウフィッツィの作品について書いている時に意識的に避けた画家がいて、それがレオナルドだった。今回の観光では、ルーブルにでも行かない限りありえないだろう程まとまってレオナルドの作品を見ているのだが、上手くその印象を文字にできなかった。ウフィッツィ15室にはレオナルド最初の作品「受胎告知」があり、他にはヴェロッキオの「キリストの洗礼」がある。この作品で弟子時代のレオナルドは画面左下の天使を描いたとされている。また、「マギの礼拝」の未完成作がある。ローマのヴァチカン美術館にはやはり未完の「聖ヒエロニムス」がある。この絵は以前、日本に来ていて再見となる*1


僕にとってのレオナルドというのは「聖母子と聖アンナ」の画家で、学生の時に画集を見て以来、なんでこんなにわけのわからない絵を描くのかと気になっていた。他にはやはり図版で「岩窟の聖母」*2とかを見て、更に困惑した。はっきり言って意味がわからない。込められた偶意とか描かれた社会的事情とかの事ではない。なんでこのような絵が出現したのかが分からないのだ。とにかく美術(史)の中に異物のようにあるのが「聖母子と聖アンナ」であって、この作品にはなにか異星人的な感触がある。そしてそのような絵を描く画家が、西洋美術の基礎として据えられている事もよく了解できない。


ヴァチカン美術館で「聖ヒエロニムス」を改めて見て、結局僕にはレオナルドという画家の事がわからないままだ、という気分だけが残った。それは多分、ルーブルに行っても同じなのだろうと思えた。「聖ヒエロニムス」に関して言えば、目につくのは衰弱したヒエロニムスの身体を描写していこうとする一種の極限性で、痩せさらばえた男性の貧しい体を、骨格から内臓から筋肉繊維まで詳細に、ほとんど人造人間を作ろうとするかのように描いている。ここではレオナルドは、人体の「立体感」のような、外面的興味は持っていない。人体を、内側から作り上げようとしている。半ば本気で一度骨格を全て描き、内臓を描き、はりめぐらされた血管と神経系を描き、筋肉を描いて最後にそこに皮膚を被せたとしか思えない。それは絵画的興味というよりはフランケンシュタイン的情熱で、絵の具で生み出されたゴーレムみたいに見える。


「聖ヒエロニムス」で人体そのものを作り上げようとしたように「マギの礼拝」では、レオナルドは生まれたイエスを訪れる東方三博士の情景を描こうとするのではなく、そのような事象が起きた世界そのものを創造しようとする。聖母子を取り囲む円環状の群像や樹木、建築物、馬(まるで実現しなかった巨大なスフォルツァ騎馬像や失われた「アンギアリの戦い」を想起させる)、建築等が複雑に入り組んだ構成は、一画面/一場面の原則を破綻へ追い込むかのようだ。レオナルドの絵を記述することの難しさは、「この世」を記述することの難しさに近い。レオナルドにとって絵画とは図像でも表象でもメデュウムでも意味でも物語りでも運動でも時間でも空間でもない、それらが要素にすぎない、それら全てを擁した世界そのものなのだと「マギの礼拝」を見ていると感じてしまう。


レオナルドは、宇宙にしか興味がない。ということは興味がないことなど1つもない、ということと同義だが、とにかく何かしら枠組みを設けてその中を整理整頓するような事をしない。地図において徹底して「全て」を描こうとすればそれは地球と同じサイズになるし、海岸線は厳密に描けば無限の長さになっていく。レオナルドが描く絵はそのようなもので、例えば「モナ・リザ」で描かれているのは“表情”という、厳密に考えれば考えるほど定着できるはずもない、輪郭も限定もない不定形な「何ごとか」だろう。それをギリギリまで完全に描こうとしているのであって、レオナルドにとってそれは(あそこまで突き詰められながら)「聖ヒエロニムス」や「マギの礼拝」と同じ未完成作でしかなかった。


このような試みが誇大妄想にならないのはレオナルドに圧縮技術という概念があるからだ。僕はラファエロについて書いた時レオナルドのスマフートなどに触れて「圧縮」という語を使ったが、それ以外でも「聖ヒエロニムス」では、表面には描かれていない男の内臓も血管もなにもかもが圧縮されている。それは、たとえば平面上に現実のものを描く時に生じる破綻を“調整”することとは違う。詳細な解剖学的知見は、平面の上に人体を自然に描くことを目的としているのではない。そういう意味ではむしろ逆効果になっている。上記のように、レオナルドはあくまで人体を自分の手で産み出そうとし、そのための情報をヒエロニムスの皮膚、というか像の中に埋め込んでいる。「聖ヒエロニムス」の画面向かって右上には、岩山の穴の向こうに街があり、左上には風景があるが、ここで行われているのは、空間表現ということだけでなく、時間と位相の観念まで織り込まれている。いわば圧縮された「時空」がある。


レオナルドが彫刻よりも絵画を賞揚したのは、絵画が世界を圧縮してゆく率において高密度なツールだと考えていたのだと思える。レオナルドが彫刻を目指せば、それは途方もない試みになっていく。スフォルツァ騎馬像が未完で終わったのは、素材が戦争用に徴用されたとかいう事情以前の原理的な問題だと思うし、絵画においてすら厳密な意味での完成作はデビュー作の「受胎告知」くらいのものだ。そして最初に完成させた「受胎告知」は、その極端な横長のフレームや遠近法のリミットを意識していたと思える画面右すみの、別空間としての寝室、レオナルドとしては例外的な程ビビッドな色彩などに興味深い点があるものの、全体としては、どこかしらに、あきらめのような物を感じる。最初から完成させることだけが目的だったとしか思えない。レオナルドにとって限定的な既定の枠組みの、かっこつきの「絵画」は最初にして終わってしまっているとしか考えられない程それは淡々と描かれていて、「描けるもの」に対する無関心すら連想される。