06 TDC展で見ることができた大日本タイポ組合の出品作は深い悪意に満ちている。この作品がいくつか準備されていた賞を逃している(にもかかわらず受賞作品と同じフロアに同等に置かれている)のは、いわば必然と言える。大日本タイポ組合は、この賞が判断する範囲を超えてしまったのだ。どういうことか。


TDC展を主催する東京タイポディレクターズクラブ(Tokyo TDC)は、以下の文言をwebサイトの冒頭に掲げている。

文字の視覚表現を広く深く追求し、従来の文字の設計にとどまらない「タイポディレクション」の世界を確立していきたい。このビジョンのもと、東京タイポディレクターズクラブ(Tokyo TDC)は1987年12月17日に設立されました。年に一度の国際的なデザイン・コンペティションを行い、年鑑の発刊と展覧会の開催を主な活動としているクラブです。

くり返せば、ここで宣言された『文字の視覚表現を広く深く追求し、従来の文字の設計にとどまらない「タイポディレクション」の世界』を確立する手段として行われたのが今回の06 TDC展だったのであり、賞の判断基準も上記のtxt通りに設定されている。そして、その枠組みの限界点をはっきりさせ、06 TDC展をひっくりかえしてしまったのが大日本タイポ組合だったのではないか。


大日本タイポ組合の出品作は大判の写真プリント6点でひと組にされたものと、モニタで流されるカラオケ風の映像の2点だ。写真プリントは、缶ビールの缶、都心の商業ビル群、ドラッグストアらしき店の商品棚、新聞の1面、スーパーのちらし、街角の公営くじ売り場の6ショットが上下2段、各3点づつ並べられている。映像作品は、この写真作品をフレーミングしながら、歌詞抜きの音楽が流れる。それだけでは何が「作品」なのかわからないが、大日本タイポ組合は、これらの画像に含まれる「文字」だけを、完全に消去したのだ。


缶には図案化された麒麟もリボン状の飾りも写っているから、一目でビールの缶だと理解できるが、当然あるべき商品名もブランド名も法で定められた原材料やアルコール含有量表示も、痕跡なく綺麗に消されている。街角の公営くじ売り場の写真には、カラフルな看板が掲げられ宣伝用の旗がはためいているが、記されているべきロゴ、そして様々な文字情報が、そっくり丸ごと消えている。背景の居酒屋の看板まで文字だけが消されている。新聞の1面も同様に文字が消えているから、写真と記事をくぎる罫線だけになっている。右上にある「○○新聞」の部分は、地紋だけが残っている。ドラッグストアの商品棚に並ぶ無数の商品からも一つずつ、丁寧に文字が消され、スーパーのちらしも価格を示すPOPデザインの数字の外枠以外同様に文字が消えている。映像作品はこれらの画像が写されカラオケ風の歌抜き音楽が流れるが、画面下に出る歌詞テロップは、画像から文字を判別させる影を残して、やはり文字が消されている。


社会に文字がもたらす情報をいかに的確に、しかも美的に表現するかを多くの優秀なデザイナーが競っている06 TDC展において、一切文字を「デザイン」せず、逆に様々に「デザイン」された大量の文字を日常風景から鮮やかにデリートしてみせた大日本タイポ組合は、反転した視点のユニークさだけでも会場内で異彩を放っている。この視覚的インパクトは、誠実に「文字デザイン」と取り組んでいる他の出品者、および審査する審査員には、一般の観客に比べより深く刻まれるだろう。無冠の作品が大賞を始めとする各賞受賞者と完全に対等に展示されているところにも、大日本タイポ組合への高い評価は現れている(他のノミネート作品は、地下の別フロアに置かれている)。だが、ここで思考を終えれば、要は気の効いたジョーク、正攻法の「文字デザイン」に対して、奇襲をしかけたトリッキーな遊びにすぎない。「面白いけど、そこまでだ」という判断、あくまで賞の対象ではないというTDC展の価値判断は、相応に正当だと言うことができる。


だが、今回大日本タイポ組合が提出した「日常からの文字(デザイン)の消去」が感じさせるのは、単なる皮肉な冗談の域を超えたものだ。簡単にいえば社会における文字、及び文字デザインの必要性という、タイポグラフィの根幹に大きな疑問を突き付けている。具体的に書くと、文字が一切消去されていてもそれが缶ビール、しかも麒麟の缶ビールだということは一目で判別できる。たいていの人ならば含まれているアルコール分が5%だということまで「文字抜きで」理解できる。なぜなら缶ビールには缶ビール独自の基底的なデザイン言語というものが踏襲されていて、それが施された缶ならば、文字などなくてもこれは缶ビールだということは容易に判別できるからだ。法的に「ビール」ではない発泡酒が、商品だけでなく宣伝媒体のどこにも「ビール」という文字を表記できないにもかかわらず、「文字以外」の要素によって、ほぼ完全に「ビール」として認知され流通している事からも明らかだろう。街角の公営くじ売り場から、LOTOというロゴや説明文が消えても、社会的文脈・合理性とその色彩設計にのっとって建てられた店舗を見れば、ここがLOTO売り場だということはやはり一目でわかる。どころか、背景のビルに写った看板に何の文字もなくても、我々はそこが「さくら水産」という居酒屋であることが了解できる。商品の棚に写った容器に文字がなくても、それがドラッグストアのシャンプー、あるいはそれに類する洗剤だということが分かる。


大日本タイポ組合の作品は、単にカウンターをTDC展に向けているだけでなく、基本的な理念、『文字の視覚表現を広く深く追求し、従来の文字の設計にとどまらない「タイポディレクション」の世界を確立』というコンセプト自体にアタックを仕掛けたと言える。なるほど、カラオケで文字の「影」が示されることで歌い出しのタイミングまでわかってしまうといっても、誰がその歌を知っているのだ、と言う疑問はあるし、スーパーのちらしに価格が記されていないのは人生における大問題だと言う人もいるだろう。新聞から文字が消えるのは本当に困ることなのか、既存の新聞に意味内容があるのか、という疑問を持ってしまうのは犯罪的発想だ、という立場の人もいるだろう。だが、百歩譲ってもここで必要だとされているのはあくまで「文字」であって「文字デザイン」ではない。


06 TDC展の会場での大日本タイポ組合の作品が「面白い冗談」どころではない、無気味な「恐ろしさ」を示しているのは、そのありかたが、関係のない第三者、外部から向けられたリスクのない「お前はいらないよ」という発言ではないからだ。大日本タイポ組合は、様々な種類の仕事の一部としてタイポグラフィーを扱っている、というデザイナーではない。ユニット名通り、まさに文字デザインということを成立基盤の中核に据え、文字デザインそのもので現実的に生存している。その彼等が、自らの内部、よって立つ根幹に本質的な批判のまなざしを向けている、という事が、今回の出品作に決定的な批評性の高さを与えている。06 TDC展で、彼等が明らかに大賞作品始め他の受賞作を圧倒する凄みを獲得しているにも関わらず、そして06 TDC展自体がそのことをほぼ認めているにも関わらず無冠で終わったのは当然だ。06 TDC展は、大日本タイポ組合に恐怖したのだ。展示は今日まで。


●06 TDC展