土浦亀城という建築家を初めて知った。森美術館で行われていた東京―ベルリン/ベルリン―東京展で、土浦亀城の自邸の写真が展示されていたのだが、この一見コンクリートによるモダン建築とみえたものが木造だと書いてあって、興味を持った。webで検索すると、ちょうど同時期に江戸東京博物館で「昭和モダニズムバウハウス〜建築家土浦亀城を中心に〜」展をやっていて、慌てて行った。バカみたいなスケールの江戸東京博物館の一角を使った、ごく小さな展覧会だったが、基礎的な事は学べた。web上に適当なまとめサイトがないこともあり、ざっくりと知りえた事を書いておく。即物的に付け焼き刃なお勉強内容を書くが、なにしろ素人のやることだから、眉にツバして読んで欲しいです。


土浦亀城(かめき)(1897-1996)は日本のモダニズム建築の一角をなす人のようだ。東京帝大在学中に帝国ホテルを手掛けていたフランク・ロイド・ライトの手伝いをし、大学卒業後、ライトを訪ね渡米してライトの建築学校タリアセンで学んでいる。帰国後、現大成建設に勤めてから独立し、自邸の他いくつかの個人住宅、箱根強羅ホテル、三原橋センタービル、西郷会館などの商業建築を残している。


会場には帰国後の土浦からライトの影響を払拭したバウハウス関連の資料の他、彼の設計した建築の写真、図面、家具などが置かれ、昭和モダニズム建築との関わりということで同潤会アパートの資料も置かれていた。個人的な目当てだった目黒の土浦亀城邸の資料もあったが、一番面白かったのは生前の本人に藤森照信氏が土浦邸のリビングでインタビューを行っていた映像で、ここで見る事のできた土浦邸内部の様子は貴重なものだった。


土浦邸は一見、コンパクトなキューブの組み合わせで出来ていて、どこかリートフェルトシュレーダーハウスを想起させるが、内部は意外と複雑で、傾斜地にあるのか地階・一階・二階がさらに複数のスキップ・フロアで分節されているようだ。白く塗られ直線で構成されている外観・内観からは想像できなかったが、前述の通り木造で、1935年に国内でこのような近代的住宅を作ろうとすると、なかなか鉄筋コンクリートというのは難しかったのかもしれない。実作を見て、そのマテリアルのつくり出す空間の触感が確かめたいが、現在は人手に渡っているというので、オーナーの迷惑にならないよう、遠目から眺めに行くのが限界だろう。一階にある吹き抜けのリビングから階段を登って狭い踊り場(小ギャラリー)に上がり、そこからさらに寝室へと上がる。寝室からはリビングが見おろせる様子が、インタビュー映像に織り込まれていた。黄色く塗られたキッチン、タイル張りで北側天窓から採光する地階の浴室など、なまなかな現在の住宅よりも新鮮な印象だった(しかし、室内にあったグレーのスチールの業務用ロッカーは少し異様だった。圧迫感は感じなかったのだろうか?)。


やはり映像中で触れられていたが、土浦は帰国後、建設会社で三角破風のようなもののある、ライトの影響の強い建物を設計していながら、間もなくヨーロッパのモダン建築の流れを受けて完全にデザインを変える。だからこそバウハウスの関連資料も展示されているのだが、この切り替えが早い。ライトから送られた手紙に、なぜ“オーガニック”な建築を止め、コルビジェ風になったのかを強く非難する文章があることが示されていた。穏やかな老人になっていた土浦氏本人は笑いながらあっさり「ライトの影響力は弱かった。ヨーロッパのデザインの方が支配的だった」とミもフタもない事を言っていたが、僕が思い出したのは、先月まで建築会館ギャラリーで行われていたミース・ファン・デル・ローエ生誕120年展のカタログにあった、あるグラフだ。


高山正實氏の文章と共に示された農業人口とホワイトカラー人口の変遷を示すグラフにライト、コルビジェ、ミースの代表作の製作年を重ねた図は、この三人のデザインの差を明解にさせるもので興味深い。いったいこのグラフの元になった母集団は何なのか、「ホワイトカラー」とは具体的にどのような層を指すのか、このグラフの作成者は誰なのか等が明示されていないのが不安な物なのだけれど、おおまかに言って農業人口がまだ優勢な19世紀末-20世紀初頭に割りあたっているライト、農業人口とホワイトカラー人口が拮抗する1920-30年代に当たるコルビジェ、その後農業人口が少数になる頃に出るミースと、モダニズム建築の変遷を社会的・経済的数値に基礎を置いて説明するコンセプトが面白かった。土浦亀城は1920年代、まさにライトからコルビジェへ「バトンが移された」頃に帰国しているから、自らの基礎を作った巨匠の形式にこだわらずに流れを鋭敏に読んでいたことになる。


もっとも、土浦邸に見られるスキップフロア等に「そんなことは考えていなかったけど、どうしてもライトの影響は(無意識に)出る」と言っているのも嘘ではないのだろう。僕はライトの建築は自由学園明日館しか知らないが、確かに中央講堂・食堂部分に細かい階層のレベル分けがあり、中段から下の吹き抜け(今は喫茶室になっている)が覗けるところなんかは土浦邸の寝室からの眺めに似ていなくも無い(今回の江戸東京博の会場にも明日館の資料や椅子が展示してあった)。


驚いたのは、JR上野駅前の、レストラン聚楽とかが入っている西郷会館や銀座シネパトスの入っている三原橋センタービルが土浦の作だったことだ。この二つは上野の美術館や銀座のITO-YAなどに行く時にごく普通に何度も見ている建物で、三原橋センタービルなどは昔そのたたずまいが気になって写真に撮ったこともあるくらいなのだが、こういう日常目にしていた建物が、後で建築家の意識的な構成物だったと気付くというのは、不思議な感覚がある。これは先に東京ステーションギャラリーで開かれていた前川國男展でも感じたことで、地元で子供の頃から親しんでいる埼玉県立博物館や埼玉会館が前川作だと知った時、同様の、少しだけ記憶の中が掘り返されるような手触りを持った。


前川國男に触れながら思ったのは、明らかに土浦亀城は「有名」とは言い切れない存在だな、ということだ。土浦亀城に関する本などもみつけられないし、建築業界では知られているのかもしれないが、恐らくマイナーメジャーというポジションではないか。盛大に開催されていた前川國男展と、ささやかな今回の土浦亀城展のあり方を見れば、それは言わずもがなだろう。


土浦邸の第一作(上で触れた目黒のものとは別の家?のようだ)が出来た時に友人達と土浦夫妻が記念撮影したらしい写真も展示されていたが、この友人というのが谷口吉郎と前川國夫だ。東宮御所東京国立近代美術館を手掛けた谷口、東京文化会館京都会館の前川と、大形の公共建築を代表作として残す二人とくらべると、土浦の仕事は住宅や中・小型の商業建築で、そのスケールははっきりと違う。資質の方向、あるいは扱うボリュームが、谷口や前川とは異質だったのか、あるいは、もっと俗な「処世」の問題なのか。まろやかな語り口調(水戸出身らしく、同じ茨城県出身の僕の配偶者はその言葉のイントネーションにやたらと反応していた)の映像を見ていると、「上品さ」に理由があるのかもしれないが、いずれにせよどことなく「時代」や「国家」を背負っていた前川よりは、その建築は軽快に見えた。もう少し積極的な紹介が欲しい。既に会期は終わっているが、一応江戸東京博物館のwebページのURLを書いておく。