東京都美術館で開催中の「プラド美術館展」で見ることのできたスルバラン「ボデゴン」について。この作品は1992年に国立西洋美術館「スペイン・リアリズムの美展」で展示されていて、僕は再見となる。1658-1664年頃に描かれたとされている。縦46cm×横84cmの大きさがある。キャンバスに油彩で描かれている。水平の台に、左から白鑞の盆に乗った銀めっきの碗、白い光沢を持った陶器の水壺、赤い粘土壺、再び白鑞の盆に乗った白い陶器の水壺が並列に描かれている。背景はほぼ漆黒で、そこに強いスポットライト光があたったように4つの器が浮かび上がっている。台は両端が描かれていない。この作品はプラド美術館の所蔵だが、ほぼ同じ作品がもう一つ、カタルーニャ美術館にあるとされている。


一見、リアルに描かれた台上の静物だが、しばらく見ていれば奇妙な感覚に陥る。まず台上に器がきちんと乗っておらず、また回り込みの部分が不自然で、まるでレリーフが壁に張り付けられたような不安定感がある。中央2つの器ははっきりと向かって左に傾いている。強い光で斜上から照らされていながら、台上に伸びた影は隣の器には映らない。横一列に並んだ器はいかなる歴史的文脈も持たず、日常的な光景でもない。見れば見る程にむしろ非現実的な性格が前面に出、それが思わず触れてしまえそうな生々しい陶器や銀器の質感と乖離を引き起こす。カタログには、この絵がスペインの静物画として例外的な構成をしていることや、遠近法・幾何学から反する面を持っていること、また1998年にカタルーニャ美術館で展示された際にカタログに描かれた解説を引いて、両脇の器が中央のものより高い視点から描かれていること、テーブルにこれらのモチーフを実際に並べて描いたのではないことなどが説明されている。


改めてこの絵を詳細に見てみれば、例えば両端の器をのせている皿は、明らかに向かって左の物の方がより高いところから描かれている。また、この皿の外縁や窪んだ中の円は明白な歪みを見せている。外縁が整った楕円を描かず、複数の楕円を組み合わせなければ形成されないラインを描く。例えば向かって左端の皿は、手前左の縁を描く楕円の中心が皿全体の中心を形成するようにしてあるが、手前右の縁を描く線はあきらかにそこからズレを見せている。また、同様に、内部で窪む部分の曲線も、左手前のカーブは外縁左手前のカーブと整合性を見せる同心円だが、内側右手前のカーブは同様にそのカーブからずれを見せ、外縁右手前の線とも微妙にずれた中心を持つ。左奥の外縁・内部の円は更に狂った中心をもつ。このことは、皿の中心を確定する向かって左手前の線の描く楕円が、そのままでは左下に傾いてしまうのを補正するために重心を操作した結果だと思える。ここに乗った銀器はしかし、その飲み口の円が、この傾いた皿の円のほぼ相似形になっていて補正がされていない。


向かって右隅の皿と陶器も、やはり様々な偏差をもった円が組み合わされている。結果的に、この両端の静物は微妙に左に傾いているが、この隅の器の傾きを目立たなくしてしまっているのが中央二つの器の、より強い左への傾斜だ(中央の器が強く傾くため、両端はまるで真直ぐであるかのような錯角を引き起こす)。ここでは皿がなく、接地面と飲み口が絞られていることから、曲線が複数組み合わされなければならないほどの複雑さは発生せず、楕円は水平で傾きもない。にもかかわらず、接地面、膨らんだ銅、絞られた中程、少し開いた飲み口と、縦に積み重なる円が一目で分かる程に左へとずれて行く。まとめて言えば、両端の器では比較的垂直性を保ちながら、しかし傾いたり中心がずれた楕円が複数組み合わされたりしており、中央の器では、傾きのない楕円が左へ左へとずれながら積み重なっている。この絵は、水平の台に円筒構造をもった器を並列に描くことで、無数の楕円が画面上に配されてゆくという課題を持つことになるが、しかしその楕円の集積が静謐な空間を成すように見えながら、実はほとんど散乱している状態を内包している。


また、この絵では、質感というもののイリュージョンがいかに成り立つかも試されている。金属の皿+銀器、白い陶器、赤い粘土壺、更に金属の皿+白い陶器、という並列は、異なる質の表現が組み合わされ比較される。そのことで、より強く固有の「質」が浮かび上がる。例えば陶器は柔らかなグラデーションの中にピンポイントでハイライトが施されることで示されるし、金属の表現は、絵の具の明暗の強いコントラストと写り込みで示されるが、それ単独では単なるハイトーンと暗部のまだら模様にすぎない。更に粘土壺は、その階調の組み上げだけではただの色面であり、質感を単独で表すことが最も困難だ。複数の「描き」が並列されることで、始めて金属は金属に、焼き物は焼き物に見える。いわば関係性が引き起こす固有性の確定という主題も感じ取れる。が、上でも既に書いたように、隣り合う器の影はけっしてお互いの上に落ちず、違う場所で個々に描かれたものが並べられたようでもあるのだ。


無関係に、バラバラにあったものが隣り合うことで産まれた固有性は、しかしもう一度反復されれば、改めてその固有性が揺らいでゆく。この作品が、ほとんど同じ内容でもう一枚存在することは、このような状況を産む。強い指向性をもった光りによる個物の切り出しは、僅かに先行していたカラバッジオとの影響関係を思わせるし、台の上に置いた静物を描きながら、異なる高さ・位置からの視点を1枚の絵に織り込んでいくかのような様相はセザンヌピカソと繋がりうる。壺の並列と白の質の追求、作品の反復はモランディを想起させる。恐らく本国を中心とするヨーロッパでは、カタログから伺えるように相応に専門家による探究が行われていると思うが、国内ではまだスルバランは十分な注目を浴びているとは言い難い。機会があればプラド版とカタルーニャ版を並べて見たいが(事実、1998年のカタルーニャ美術館での展覧会ではそれが実現しているのだろう)、国内では難しいだろう。いずれにせよ、機会を捕まえてはくり返し見るべき作品と思える。プラド美術館展は会期が延長されている。


プラド美術館