めぞん一刻」を久しぶりに読み返した。高橋留美子によって1980年から1987年にかけビックコミックスピリッツに連載されたマンガで、安アパートの住人の一人である学生と、そこに管理人としてやってきた未亡人との恋愛が主軸の話しだ。今でも文庫サイズで復刊されていて、これを改めて通巻で見た。


とにかくヒロインである音無響子がとことんエゴイスティックなキャラクターで、基本的にはこのヒロインの、自分を中心にした疑似家族を再構成したいという欲望が、いかに周囲の人間をリモートコントロールしていくかという展開になっている。前夫を不慮の事故で亡くすことによって新しい家族を構成することに失敗し、同時に自分の両親との関係も決定的に壊した音無響子は、安普請でトイレも廊下も共同になっており、壁さえ穴があけられてほぼプライバシーというものが存在しない、前夫の実家の所有であるアパート一刻館に赴任して、ここに住む過剰にお互いにかかわり合おうとする住人達を、最終的には文字通り自分の家族にしてしまう。


響子の家族、すなわち“自らを無条件で受け入れてくれる場所”への希求は、ほとんど主人公の学生・五代との恋愛話が「手段」に見えてきてしまう程のものだ。そういう意味では三角関係の一方を成すテニスのコーチ・三鷹の敗因は最初からはっきりしていて、一刻館の三号室に入居しなかったことだけだと言える(なにしろ五代が入院して、それをケアする響子と接近してしまうとなった時、わざと骨折して同じ病院に入るくらいのことをする三鷹であれば、空室になっている三号室に住まないのは、ほとんど不自然にすら見えてくる)。響子のエゴイズムは、コミカルな作品に奥行きと抵抗を与える。例えば、本来「ただの美人」である響子が、急に顔を歪め嫉妬にかられて「許せない」と叫んだり、怒りを全身から噴出させて仁王立ちしたりする様が、響子自身だけでなく、そのことでみっともなく動揺する「ただのハンサム」の三鷹や、反作用で響子に怒鳴ったり手をあげそうになる「情けないただの弱者」の五代の心理の奥底を浮上させてゆく。


音無響子のエゴイズムは、ほとんど無意識的悪意とでも呼べそうな程の力をもって、それなりに安定していた筈の一刻館という共同体を再組織化してゆく。最初から自分勝手な住民達が集う一刻館を、家族と言える単位にまとめあげていこうとする「管理人」=音無響子の武器は、露骨なまでの権力意識とエロス的力で、このエロスを五代という「大学に合格したらこんな所すぐ出ていってやる」と思っていた青年に向けて発動する事で、響子は「いつかみんなバラバラになっちゃうのかもしれない」危うさを持った一刻館を、自分と五代を中心とした、確立した「家族」に組み上げていこうとする。だから、響子が辿り着くのは五代と「夫婦」、しかも「一刻館の夫婦」になることであって、けして恋人同士になることは目指されない。五代と恋人同士になる事はぎりぎりまで回避されながら、一度五代と結びついたとたん、すぐに「夫婦」になってしまう。


「恋人同士」であることは、周囲を排除し(恐らくここで一番排除されるのは、五代と微妙にセクシュアルな関係を持つ六本木朱美だろう)最も重要な芽である「一刻館という共同体」を成長させられなくなってしまう。そもそも恋人など響子はまったく必要としていないのだから、これは周到に避けなければならない。しかし、五代をつなぎ止めておかなければ一刻館を家庭にすることもできない。この困難を切り抜けるため、響子はほとんどありとあらゆる無-意識的策謀を展開している。ぼーっとした青年・五代を「社会人」にしたてあげる努力も怠らないし、最初から目的=一刻館の外部にいる三鷹を適当に刺激することもやめない。五代に接近するこずえは、五代に圧力をかけつづけることで間接的に排除する。犬に前夫の名前をつけて、五代を6年という長い間にわたって牽制しつつ「物語り」へ参加したいというモチベーションも与える。いかに一刻館という場所を宙づりに維持したまま五代を成長させ、最後に一気に「一刻館の中核たる夫婦」となるかに、響子の全精力が傾けられている。


この響子のエゴイズムは、「前夫の死」という物語りによってカバーされている。例え五代に好意をもっていることが明らかになっても、そのことを決してオフィシャルにはせず、三鷹とあからさまな両天秤にかけてバランスを保っていたとしても、「前夫の死」という物語が全てを正当化してしまう。結果的に見れば、ほとんど前夫、音無総一郎を死に向かわせたのは響子だったのではないかと想像させるくらいに、この装置は完璧に動作する。核家族から脱出するために言い寄ったのではないかとふと思わせる(つまり、男性としての魅力がほとんどない)音無総一郎の元におしかけ同然で嫁ぎ、ほとんど現世的なことに興味のない総一郎とファンタジックな夫婦(ごっこ)をしながら、そのファンタジーが破綻した後、その「総一郎の死の影」が響子を守っていく。


この装置は響子に「恋愛」を禁じる。そこで召還されるのが「過去の響子」たる高校生、八神いぶきで、この、勘違いから五代に恋をしながらその重要な(筈の)きっかけがいつの間にか消え去ってしまい、非常識なまでに五代に迫りながら、これまたいつしか響子に「恋愛」を発動させる事(つまり明らかに自分に不利なこと)に情熱を移行させ、それが成就したら、あっさり五代の前から姿を消してしまうという不思議きわまりない人物は、ほとんど過去の響子の亡霊だ。実際、過去の高校時代の響子の造形は、現在の響子とはやや齟齬をきたしながらも、不自然に八神いぶきと重なる。過去の響子=八神の登場によって、夫婦になることにしか目的をもたず、恋愛にまったくモチベーションがない響子に、恋愛が(罪のりんごのように)与えられる。この道筋が引かれてしまえば、あとは「ぼーっとした」青年・五代を窮地に立たせる(三鷹との関係を煮詰める)ことで成長させ、結婚対象たる「条件」を身に付けた「大人」に生まれ変わらせることだけが、響子のエゴにとってのハードルとなるだろう。


高橋留美子のマンガは、たとえば「うる星やつら」ではっきりしているけれども、もうめちゃくちゃなまでに効率の良いコマ割りから産まれるテンポで、ほとんど音楽的に「よまされてしまう」ようなところが魅力なのだとおもう。しかしこの「めぞん一刻」では、恐らく意図的にこのテンポがゆっくりに押さえられ、スピード感が消去されている。中盤などでは、定式化した誤解とすれ違いによる三角関係がマンネリ化することで、この速度がほぼゼロにまで落ちてしまうのだが、このような、ややスカスカした中盤を挟みながらもこの作品が一定のリアリティを持つのは、響子の過剰なエゴが人々をゆり動かす様が、速度を犠牲にしても丁寧に描かれているためだと思う。


リアリティ、と書いたが、しかしこのマンガのリアリティというのは、ある狭い時代にのみ有効なものだったのかもしれない。それは携帯電話やネットなどの情報機器がない、とかいう表面的な話しではなく、家族の再構成、という課題が重要だった時代というのが、もう一サイクル終わってしまったからではないか。単純に言って、音無響子の凄まじい欲動は、家族の不可能性への挑戦、自らを無条件で受け入れてくれる「家庭」を獲得しなければならないという切迫した衝動に基づいている。が、しかし“自らを無条件で受け入れてくれる”場所というのが、家族以外に想定できない、かつその家族は機能不全に陥っていて、他に選択肢がない、という時代は、まさにこのマンガの連載時期に重なっていた特殊な条件だ。


響子が脱出したがっている実家はいわゆる核家族(すでにこの言い方が古い)で、たった3人で成り立っている「家庭」が、単なる個人の過渡的集合であるにもかかわらず、なお「家族」という、集合体より大きな意味を持った機能を無理矢理発揮しようとしている場所だ。そこでは父と母と娘が、個人的エゴで生きているにも関わらず「父」「母」であろうとすることから産まれる軋轢で満ちていて、響子はそこから逃げるように大家族に同化している音無総一郎の元へ嫁ぐ。ところがこの結婚はわずか半年で(総一郎の死によって)破綻してしまう。響子が次に求めたのは、最初から他人同士であるはずの住人達が、貧しさ(安普請)に基礎付けられて共同体を成り立たせてしまっていた一刻館で、響子はここを「本物の疑似家庭」という奇妙な、しかし他に解決策などありえない場所にするために、意識的・無意識的行動をとり続けることになる。


要は、(核)家族というものが機能不全に陥った時に旧来の大家族へ回帰しようとしてそれが失敗し、新たに疑似家庭を組み上げていくのがこの「めぞん一刻」というマンガで、こういうプロセスが緊急の問題だったのが、1980年から1987年だったのだと思う。今では、無論家族の問題は解決してはいないものの、一般の家庭そのものが最初から「疑似家族」としてやっていくことが常態になっている。そこにいるのは全て個人であって、その相互のエゴを最初から繰り込んだ上でとりあえず各役割を(全員がそれを役割であると知った上で)適度にこなしていくという環境、つまり「本物の疑似家族」が定着しているように思う。この「本物の疑似家族」というものが模索されていた時に必然性を持って産まれてきたのが「めぞん一刻」であって、ここにはり巡らされた様々な問題は、現在読んでみると、ノスタルジーとしか言えない古びた感触を持ってしまうかもしれない。


それでも、なおこの、強い意志に基づいたマンガが今読みうるとすれば、“自らを無条件で受け入れてくれる場所”への希求というものが産み出す異形の姿が、現実というものとどのような接点/接線を描きうるかが現れている、という点だと思う。“自らを無条件で受け入れてくれる場所”という主題は、いまや家族=公の場と「私」の場を仲介し線をひく物をメルトダウンさせて、「私」が一気に「世界」に繋がってしまい、結果世界全てを“自らを無条件で受け入れてくれる場所”にしてしまいたいという、恐ろしくグロテスクな幻想を肥大化させている。このグロテスクさにくらべれば音無響子のエゴイズムはほとんどイノセンスなまでの節度をもって、世界と「私」を穏やかに折衝させていくための装置を探究している。現代性、というより現在性、という言葉を使いたくなるが、少なくとも“自らを無条件で受け入れてくれる場所”への欲望の醜さ、しかも避けることのできない恐さを、誠実に描いているのが「めぞん一刻」だと思う。