ブリヂストン美術館所蔵、セザンヌ「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」について。1904-06年頃に製作されたとされている。キャンバスに油彩で描かれている。縦66.2cm×横82.1cmの大きさがある。


画面向かって左の辺の上部わずかを残して、濃いビリジアンのタッチが、やや丸みを帯びて短く下方へ伸びてゆく。このタッチは濃淡を見せ、また所々に青を覗かせながらやがて斜め右下方向に連続し画面下1/2弱を覆ってゆく。画面中央から左にずれたところに、上記の緑と強いコントラストをなしてオレンジ色めいた黄色が直方体を組み合わせたボリュームを成す。このシャトー・ノワールと思える建造物には、右上にカギ型にシャープな輪郭線がひかれる。画面中央に青と白を混ぜた水色の色面がある。下にあるビリジアンを反映したやや薄い緑、シャトー・ノワールに使われた黄色も所々使われているこの水色の色面は、ビリジアンとは違う短く小さな、左上から右下への方向を持つタッチで織り成されている。


画面中央では青の他、黄色が僅かに多く用いられ、ビリジアンの線が斜めに入ることでサント=ヴィクトワール山の肌を感じさせる。濃い青によって稜線がひかれることで、山をその上の空と分割している。画面上は彩度を落とされた緑が青と混ざりながら画面右上隅の角を頂点とする三角形の色面をなす。ここにもわずかに黄色が覗く。また、画面左下隅とその上の左辺には、ほとんどシャトー・ノワールに使われたのと同じ黄色が見える。


緑と青に染まった画面にシャトー・ノワールの黄色が強い対比を示している。しかしこの黄色と、接する水色も色相は異なるものの明度・彩度はほぼ同じで、全体にある一定のコクが画面を覆っている。ビリジアンにはどこか透明感があり、水色と重なりながら、セザンヌとしては異色な浸透感覚が画面全体から感じられる。緑のタッチの丸まり方、青と白の混ざり合う水色も含めて、厳しい対立と分裂がタッチになく、むしろ重なり合い滲み合うような連続性がある。


まるで水彩のような一種の瑞々しさがあるが、けして絵の具層が薄いわけではない。サント=ヴィクトワール山は、あまりボリュームを発生させることなく、わずかにタッチが細かいもののほとんど空と連続し、後景として退いている。シャトー・ノワールが中景としてあり、画面下半分を占めてゆくビリジアンが前景をなすかと思えるが、ほとんど唯一と言っていいマッスを成すシャトー・ノワールを隠して見れば、画面はオールオーバーな色面として見えて来そうになる。


ほぼ平滑な絵の具の広がりの中に形態として立ち上がるシャトー・ノワールは、画面の中心からややずれ、緑の絵の具の中に埋没するかのようだ。この緑は画面左では縦のブロック状のタッチでありながら、シャトー・ノワールの右側では上へ膨らむ弧を描き始め、この弧はサント=ヴィクトワール山の中腹の線と連続して画面上方の水色へとなってゆく。シャトー・ノワールの輪郭が描く鋭い角が、真綿のような画面からとげのように突き出ている。画面には塗り残しの白がなく、これもこの作品に、息がつまるような濃密性と、どこかいまにも絵の具が溢れそうな“ぬめやかさ”を付与している。


セザンヌにおいては、大地や個物が形態として確固として描かれ、空はその反動のように明確な位置を持たず、混濁したり塗り残しとして現れたり、画面構成の中で覆い隠されたりする例が見られることは前にも指摘したが(参考:id:eyck:20050804)、この「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」においては、そのような大地と空、あるいは個物と無限空間としての空、という対立は発生していない。上述のように、サント=ヴィクトワール山と空はほとんど同じように描かれ、そこに描きとしても、実際の絵の具層としても「隙(間)」はない。画面右上にある、少々暗い緑の色面が前景としてある植物の葉なのか、それとも空の一部なのか不明瞭で位置が確定できないことに、セザンヌにおいての空の問題が現れているようにも見えるが、そのことが作品全体の中で浮き上がらないことの方が注目に値する。


この作品の、うねる色彩の中に顔を出すシャトー・ノワールという構成は、平面上に立体空間を描く、という雑駁な言い方では捉えられないセザンヌの問題意識が、セザンヌの中でも特殊な形で現れている。シャトー・ノワールの周囲の絵の具層も、けして完全にフラットな面を成すのではなく、ごく狭い幅でゆれ動くような様相を見せ、そこから伸び出るように城郭の形態がある。不用意な比喩を使えば、波動のような、2.1次元とか2.2次元とかの揺らぎの中に、すこしだけ、2.4次元くらいの特異点が出現しているようでもある。セザンヌの他の作品では、もっと激しいタッチの振動と断絶が画面を分解するようにあり、それがどこか見る物の痛覚を刺激するような鋭さとなっていることがあるが、この作品ではそのような「尖り」が、おそらく意図的に削られ、丸みを帯びたタッチと絵の具の重なり合いがなだらかに画面を覆い、そこにぽつんと使われなかった城がある。こういった試みは、セザンヌの中で中核的なものではないと思える。この「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」が、セザンヌにおいてどのような位置付けとしてあるかを判断するには、僕にはまだ“セザンヌの経験”が不足している。