東京都現代美術館カルティエ財団コレクション展を見てきた。注目すべきはアルタヴァスト・ペレシャンの映画「我らの世紀」(1982)だ。これを見るだけでも木場まで足を運ぶ意味があると思う。全編モノクロの作品で、ペレシャン自身が撮影した映像はなく、全て宇宙開発と飛行機、戦争などに関する記録フィルムの編集によって出来ている。今回見られるのは30分の短縮版のようだ。


開巻直後に旧ソビエトソユーズ形と思えるロケットの搬送場面がある。旧ソビエトのロケットの特徴である、クラスタ型と呼ばれる多数のブースターを束ねた機体が、横倒しで陸送されるシーンにこの映画の利用しているショットの力が象徴的に表れている。巨大なトランスポーターに乗ったロケットの無数の噴射ノズルを極端な見上げで捉えた構図は、ロシア・アバンギャルドの写真と共通する。ロトチェンコの、労働者の顔をあおりで捉えた写真などにはプロパガンダ的効果が強く発揮されているが、国家の威信を直接伝播させようとする宇宙開発の記録映像にも、東西を問わずほとんど同じ手法が使われている。無論ロケットというメガスケールの構築物を捉えると必然的に見上げのショットが増えるのは当然だが、例えば機関車の疾走シーンなどにも、同様にあおりのシーンが使われる。


しかしこの映画の強度は、素材のインパクトによってではなく、あくまで既存のフィルムを再構成して全く新たな世界をつくり出す編集作業によって形作られている。その編集によって描き出されているのは意外なくらいにストレートなメッセージだ。にも関わらずそのようなメッセージが陳腐に見えない。テンションが高原状態で保たれている30分間は、この展覧会で見られる他愛のない「現代美術」を圧して余りある。この映画の強さの物理的裏付けは、例えば上記のような、プロパガンダ映像が利用する見上げの効果の他、モノクロのコントラストの激しさ、同一シーンの反復、爆発シーンや事故のシーンの、映像としてのショッキングさ、大袈裟な音楽の使用など、みようによっては「そんなのアリか」と思うような直截的なものだが、これらを徹底して使う姿勢とショットのつなぎの精妙さ、リズミカルなテンポの厳密さが画面を征服し「映像」を「映画」として生まれ変わらせる。


巨大なロケットの打ち上げに続けて流される戦争での爆発や開発段階でのロケットの事故のシーンにロマンティックな音楽を被せていくペレシャンは、20世紀という巨大技術の時代を力強く表現しようとしている(宣伝的)映像の誇大性をとことん強調する。そしてその誇大性が一点を突破した地点で、テクノロジーの悲劇性や喜劇性を浮上させているように見える。このようなフィルムを作った人物が、ソビエトに支配されていたアルメニア出身ということを考えあわせれば、自然とスターリニズム批判といった視点が想起される。また、技術というものに不可避な事故のカタルシスを取扱ったもののようにも、世界大戦と一体であった20世紀という時代=「我らの世紀」の告発のようにも見える。だが、このような見方では、この作品の「強さ」の誤読となってしまう。


例えばスターリニズム批判ということならば、思い起こされるのはドゥシャン・マカヴェイエフの作品だ。旧ユーゴ出身のマカヴェイエフは、センセーショナルで生理的な映像を駆使して「強い」映像を作り上げていた。個人的な記憶を掘り返せば、「スゥイート・ムービー」終盤の乱痴気騒ぎのシーンで、こみ上がる胃液を押さえ付けながら最後まで見続ける事が出来なくなり、這うように池袋の映画館を逃げ出した記憶が刻印されている(そういう意味では「WR:オルガスムの神秘」は大人しかった)。しかし、マカヴェイエフにおける強さは、スターリニズムというフレームにスキャンダラスな映像をぶつけるという単純なもので、結局は反抗という身ぶりに仮託されている。つまりスターリニズムに依存せざるをえないという、根本における「弱さ」と繋がっている。また、事故のカタルシスということならばクローネンバーグの「クラッシュ」でも扱われているが、ここでは、死への欲動が性的快楽と繋がるイメージの集積が、どこか背徳的な世界を構成していて、ここでも負の価値を反転させるという、「弱さの強さ」が本質にある。


ペレシャンの「我らの世紀」には、このような、弱さを利用した強さ、すなわち弱者の強さを感じさせる“暗さ”が決定的に欠如している。それは先に書いた手法のダイレクトさに乗った、身もふたもない「肯定」の意志に貫かれている。ロケットの打ち上げシーンが射精のような性的隠喩に繋がっているのは当然として、へその緒をもった胎児を連想させる宇宙遊泳の様子や、飛行士の拙い動作と不安な表情などが積み重ねられて行き、要所要所で示される太陽のショット、光球表面から吹き上がるプロミネンスや皆既日食のダイヤモンド・リングの映像の反復に心音がかぶせられることなどによって、作品全体が“(生命)力”そのものを扱っていることが理解できる。それは宇宙/飛行という、外へのベクトルを持つものでありながら同時に恐ろしく内的・情動的な映像、地球を子宮として扱うような映像と言える。パレードの溢れるような紙吹雪きは政治的皮肉というレベルをこえていて、まったき歓喜、母たる地球を犯してでも飛び出ようとする欲動へのダイレクトな祝福と見えてしまう。



「我らの世紀」には一点もシニカルなものがない。異なる文脈にある映像をモンタージュすることで、素材が持っていた意味や政治的メッセージを無化し、完全に新しい映像として再生させているペレシャンは、まるで自身が出産する妊婦のようだ。使用されているのはソビエトのものばかりでなく、アメリカのアポロ計画のものなどもふんだんに見られる。そしてそこにポリティカルな対立構造はなく、あくまで宇宙飛行や戦争のイマジネーションの元として同列に扱われている。ペレシャンにあるのは鉄のような健康で、核兵器の爆発の連鎖すらキューブリックの「博士の異常な愛情」のニヒリズムとはまるで違った、純粋な力の発動として扱われている(それは、月の地平線から昇る地球の姿が、核爆発のキノコ雲と重なるようなイメージとして提出されていることからもわかる)。


徹底的に肯定される力、そのフィジカルな健康は、あるラインを超えて戦争すら力強く美しいものに変えてしまう。戦死者を慰霊する人々の姿は確かに入り込んでいるが、それは前後するあまりにも「感動的な」爆撃や砲撃のシーン、美的にすぎる戦闘機の編隊飛行、恍惚感が産まれそうなジェット機のきりもみ墜落のプロセスにかき消されてしまう。ペレシャンの「我らの世紀」は、なんのてらいもない“肯定”の意志によって、その肯定が悦ばしき暴力と化してしまうような地点を描き出している。この映画は、結果的に映画というものの持つ力動を物質的にあらわにしている。メタリックなモノクロ画面は冷えておらず熱い。ゴダールとの関係を書く能力を僕は持っていないが、「アワー・ミュージック」の第一部よりは、確実に充実していると思う。美術館での仮設劇場というコンディションも考えあわせれば、短縮版ではない全編を通した、きちんとした施設での上映が見たい。


カルティエ現代美術財団 コレクション展〜思いがけない遭遇〜