三の丸尚蔵館で「花鳥-愛でる心、彩る技-若冲を中心に」3期目を見て来た(この3期は日曜日で終了した)。2期目に関しては以下のエントリをアップしている(参考:id:eyck:20060515)。今回も「動植綵絵」30幅のうち6幅が展示されている。


前回の展示とは少し違った印象を覚えた。恐らく2回目、ということで目が「若冲的強度」というものに対する準備ができていたためかもしれない。個別に作品を見てゆく中で、それぞれにある種の揺れ幅があることが感じられた。例えば「蓮池遊魚図」や「秋塘群雀図」では、縦長の画面に小魚や雀といった小型の動物を点在させ、その間隔=地が意外なくらい広くとられている。2期で見た「棕櫚雄鶏図」にあったような、画面全体を覆い尽くす強迫的な描写はここでは画面周辺の蓮などの植物、及び小さい動物に集約されている。「芦鵞図」では背景の葉はほとんどブラッシュ・ストロークのようなタッチで描かれ、細密な表現はなされない(「蓮池遊魚図」でも、画面向かって右下の水草の表現にストロークが見られる)。


それでも「蓮池遊魚図」「秋塘群雀図」は、まるでデジタル画像をコピー&ペーストしたかのようにほとんど同じ形態と描写の雀や小魚が反復/増殖されていて、そのリズミカルな配置が“隙間”に緊張感を与えている。しかし「芦鵞図」では、中央の鳥の羽の描写は細かいものの、その丸みを帯びてどこかマンガ的な鳥は、頭部などに引かれた輪郭線に閉じ込められ画面の四方にまで緊迫感をおよぼさない。さらに「老松鸚鵡図」では、鸚鵡の描写が画面に占める面積の小ささによって影響力を減じている。この「老松鸚鵡図」では、背景に線状の松の葉がありそこの後ろに「ぼかし」の技法が使われていて、画面全体がどこもかしこも緊迫している、というような様相は見せない。率直に言えば「芦鵞図」と「老松鸚鵡図」は、若冲の代表作と言われる「動植綵絵」30幅の中でも「穴」となるような作品と言えるだろう。個別に見て高度な作品だとは思えない。


もちろん30点がまったく同じような「描き」で埋め尽くされていたならば、むしろ「動植綵絵」はつまらなくなっただろう。今回の展覧会が示すのは、若冲の技量の多彩さとそれを組み合わせる構築力だ。「芦鵞図」にブラッシュ・ストローク的表現が見られることは上述の通りだが、「紫陽花双鶏図」の紫陽花の花弁は、胡粉の盛り上がりがまるでたらしこみ技法のように見えながら、けして輪郭が侵されないように細心の注意でコントロールされている。全体に若冲胡粉を扱う場面では、ことさらにその物質性を強調するように見える。「梅花小禽図」での、画面に点々と打たれる梅の花の白はそのエッジが立ち上がっている。まるで内海聖史氏の絵画に見られる、綿棒で油絵の具をキャンバスに打ち込んだ痕跡のようだ。このような立体的な顔料の顕現が、墨による梅の幹の表現やフラットな地とコントラストを形成する。


徹底的な描写というなら「紫陽花双鶏図」の、ことに画面向かって右下の雌鶏の羽の描画に極められている。小さな白い丸が雫のように描かれている様子は、まるで蛾の羽の擬態のように鶏のフォルム全体より羽毛を強く知覚させる。このような描画が、上記のような紫陽花の表現や木の幹の表現と厳しい対立を見せ、画面を窒息させる直前まで活性化する。「芦鵞図」や「老松鸚鵡図」のような、独立して見ると「穴」のように見える作品は、「動植綵絵」30幅が、本来主役となる釈迦三尊像を取り囲んだ時、まさに「紫陽花双鶏図」の中で見られるような細部同士の拮抗の一部と同じように機能するだろう(2期で見られた特異な描画の「菊花流水図」も、そのような役割を成すだろう)。


この展覧会で参考的に出品されている若冲以外の作品も十分単独で鑑賞の対象となりうる。僕が今回素晴らしいと思ったのは「餐香宿艶図巻」で、この18世紀清朝の沈南蘋という画家の草や虫、小動物の描写は本当に瑞々しい。蜻蛉の羽の、思わず皮膚的な触感まで感じ取れそうな「やわらかさ」は、ちょっとぞっとするような感覚だ。“柔らか”な描写ということなら、中国絵画は14世紀に遡ってもその生々しい印象を保持している。墨絵の「黒梅図」の濃淡表現などは、保存状態を差し引くと驚くべきものだ。ヨーロッパではジオットの時代だ。もちろん14世紀中国の絵画は「自然主義」というような近代的思考を持っていたわけではないし、中世ヨーロッパは極めて強固な抽象的体系からその美術表現を産み出していたのだから、単純な比較などできないが、それでもこの高度な達成が、18世紀の日本においても強い影響力を持っていたことは納得させられる。残り2期と合わせて、国立博物館でのプライスコレクション「若冲と江戸絵画」展も重要だと思う。


●花鳥-愛でる心、彩る技-若冲を中心に