ホテルオークラ別館で行われている「花鳥風月 日本とヨーロッパ」展にあったヴラマンクの「大きな花瓶の花」を見て、ヴラマンクって思っていたより面白い作家だと感じた。「大きな花瓶の花」は1907年に制作されていて、簡易なパンフレットによれば縦101.5cm×52cmの大きさがある。キャンバスに油彩で描かれている。


まず最初に感じるのは、縦に長い構図の中に、鮮やかな色彩のタッチが宙に浮いているように見えるということだ。キャンバスがなす平面から各タッチが浮遊していて、様々な色が不連続にポコポコと出っ張って見えたり引っ込んで見えたりする。その個別の色彩が、空間的に配置されているように知覚される。背面にオーカー系の黄色がカッチリと広く置かれていたり、ややくすんだ緑が鈍く輝くような発色を見せていたりもする。技法的には、下層に暗いウルトラマリンの色面を置き、その上に明度と彩度の高いタッチを置いて効果を上げているところなど「クサい手だなぁ」と思わせられたりもするが、しかし全体に、画面を染め上げてしまいやすい群青を限定的に、量(厚み)を押さえしっかりと乾燥させてから上に他の色を載せたり、各所で絵の具が混濁しないようにコントロールするなど、およそ巷間に伝えられる「情熱型で孤独を好み、独学でアカデミズムを攻撃し続けた画家」というヴラマンクのイメージからは懸け離れた構築的な絵だ。隣に並んでいたキスリングの、妙に生理的に気持ち悪い絵と好対照をなしていた。


しかし、僕がこの作品を面白い、と思ったのは、このようなポイントとはすこしズレた所でだ。どうしてこのような、対象の「描写」がほとんど行われず、画面内のタッチの建築だけで成り立っているような絵が、しかし確かに「花瓶に差された花の束」だと思えるのだろう?もちろん、花瓶らしきボリュームは画面中央やや下にそれらしく描かれているし、その上部に色とりどりの絵の具が、宙に浮くようにありながら、なんとなく固まってあるように見える。そのような作品に「大きな花瓶の花」という題がついていて、しかも「花鳥風月」なんていう展覧会、しかも結婚式場みたいなホテルの一室で見ていれば、いやでもに「花瓶に差された花の束」に“見えてしまう”のは自明かもしれない。だが、僕はあそらく、これをどこかの倉庫や、下手をしたら路上で(質の良い複製でも良い)、タイトルを知らずに見たとしても、「ほとんど色彩の空間的配置のようだ」という感覚と、「しかしこれは明らかに花瓶にさされた花である」という認識を、同時に得るのではないかと想像してしまう。


こういうことを「人は堆積した文脈とはりめぐらされた関係性から意味を読み取る」とか言っても、ほとんど何も説明したことにならないと思う。絵の具の配置でしかないようなモノが、しかし「花瓶に差された花の束の絵」だと(様々な違いを持つ、どんな文化的背景をもっている人であろうと)感受されてしまう、という事の根っこにある謎は、考えれば考える程=作品を見れば見るほど浮上してくる。こういった、対象と作品の、極めて微妙で複雑な関係は、例えば竹内栖鳳の「柳に白鷺図」の、ほとんどアクションペインティングみたいな木の枝の表現や、酒井抱一の作品でも見ようと思えば見られるが、しかし東洋的な「見立て」などのような視点ではなく、客体としての個物を独立して取り出しながら、しかしそれが人(画家)の知覚を通して再構成されるような「変な事態」は、多分19世紀末から20世紀初頭の西欧で、ごく短い期間に展開されていた「特殊な状況」だと思う。事実、ヴラマンクもこういった「変な」絵を描いていたのはかなり短い期間で、数年後には同じ会場に置かれている「花」(1910年)のような、ブルーで染まったムードに沈滞した作品を描き始める。


『絵の具の配置でしかないようなモノが、しかし「花瓶に差された花の束の絵」に見える』という事実を、状況とかからではなく画家の立っていた場所から類推し記述することはただの言い換えに近いかもしれないが、しかし無意味ではないと思う。恐らくヴラマンクは、花瓶の花を前にしながら、それをそのまま視覚的に再現するのではなく、そのモノを前にしていた時に、自分の中に生じた総合的な「諸感覚」を、画布と絵の具を通じて「再構成」している、と言う事はできる。このような「感覚」は、人体という、どのような歴史や環境の差をもっていても誰でも共通して備えている成り立ちの上にかたちづくられているから、文脈とかに左右されない。しかし、にも関わらず、このような絵画の制作が可能だったのは、やはりある特定の時期と場所に限られているし、大きな謎はいぜん残る。例え「19世紀末から20世紀初頭の西欧」で描かれた「対象と作品の、極めて微妙で複雑な関係」が現れた作品が、多くの人に素晴らしいと「今」思えても、現在改めて「花瓶に差された花の束」を描いて、ヴラマンクがなしえたような「感覚の再構成」を成り立たせるのは、ほぼ(完全にではないだろうが)不可能としか思えないのだ。


僕自身上手く整理して文章にすることができないまま書いている。前段の「(個人の感覚に基づいた)絵の具の配置でしかないようなモノが、しかし花瓶に差された花の束の絵だと感受されてしまう」という点と、そのような絵画が、ある特定の時期に集中的に制作されていたということは、微妙に異なる問題かもしれない。ヴラマンクの、主に1904年から1907年という短い時期にかなり興味深い作品が集中しているようなのだが、ゴッホ並とはいわないまでも、どこかでまとめて展観できないものだろうか。


●花鳥風月 日本とヨーロッパ