雑記。今程美術の歴史の中で「色彩」というものが無頓着に使われている時代というものもないのではないか。なぜああも無闇やたらと“カラフル”な絵を描いたり、逆に映像的イメージに隷属させるような色の扱いをしたり、ただのインパクトのためにどぎつい色をパーンと「塗ったり」できるのだろう。たぶんそういうことの出来る人は、僕より遥かに色に対して蛮勇たっぷりなのだろうと思うし、視角効果にだけ徹することができるというのも、言い方によっては「仕事が出来る」とかいう事になっているのかもしれないが、もう一つ可能性があって、かなりの人数が「あえて」とか「狙って」とかではなく実は「何も考えていない」って事はないだろうか。


いずれにせよこの手の、現在の美術の色彩に対する無頓着さを助長しているのは絶対アニメだ、と僕は断定していて、僕はそれなりに気になった作品は見ているし、その「記述」に面白いところがあれば、それはそれとして面白いとも思い、楽しんだりもするのだが、時々棚上げにしている筈の「アニメの色彩」が無性にカンに触って見ていられなくなる時がある。きちんと色彩設定とかこだわりがあるんだろうな、と思わせる画面に限って、細部までキメキメで無闇やたらとチラチラしており、ちょっと吐き気をもよおすような気持ち悪さがある。


しっかりした仕事がされているからこそ色彩が気持ち悪い、格好な例が「凉宮ハルヒ」で、あのデジタルな着色のクリアな画面がうねうねと動き回っているのが一度目に引っ掛かると、ほとんど乗り物酔いに近い感覚に陥る。劇中出て来る「閉鎖空間」という特殊な場面設定では背景がグレートーンになるのだが、このグレーがまた恐ろしく生理的に気色悪いグレーで、作り手は意図してやっているのだろうが、あのような他人の噛み終わったチューインガムを口に押し込まれたかのようなおぞましい「モノトーン」の世界の中でラブシーンを演じられた時は「うっわー…」とのけぞった(逆を言えば、そこまで持って行ったというスタッフの力量は凄いと思う)。


もう一つ、こういう意図的に狙ったモノクロ画面に「気持ち悪さ」を覚えたのが漫画のデスノートで、とにかくこの絵を描いている人は非常に「スタイリッシュ」に「白黒」の絵で延々と物語りを紡いでいくのだが、どうやら「かっこいい」ということになっているらしいこの白黒の感覚が、ほとんどずーっと目の前でアルミホイルをくしゃくしゃと丸めては引き延ばされているような、立ちくらみしてしまうような気分の悪さなのだ。


こういう気持ちの悪い「白黒漫画」に最初に出会ったのは上條淳士で、TO-Yなどはまだ「変な絵を描く人だな」と思うだけだったし物語りがそれなりに面白かったので読んでいられたのだが、失敗作「sex」ではこの「白黒漫画」が物語り記述の空疎さを埋め合わせるように無駄にコントラストを上げてビカビカしてきてしまい、まったく見ていられなくなった。なんだか「ビジュアル系」の漫画家がよく陥っているこの手の悪趣味な「モノクロ」の奇形っぷりを、繊細なバランス感覚でギリギリ成立させていたのは、僕が知る範囲では楠本まきの「KissXXXX」だけで、あとはちょっと見ていられないと思う。


ビアズリーの影響などあるのだろうか?過去に新宿の某デパート美術館で「サロメ」の刷り本が展示されていたのを見たけれども、少なくともビアズリーは、当時の紙に印刷される当時の黒インクの質というものを、きちんと理解していたと思う。結局「色」を(自分では)カッコよく使っている(つもりの)人々がスッポリ忘れているのは、モノクロを含めた色彩というもののマテリアルの伝播に対する感覚で、いったい「黒」や「赤」といった「色」が、どのように、何に基づいて発色していて、どのように他人に感知されるのかという事に関する目配せや感受性が欠けている場合が目につくのだ。自分がイメージしている「色」が、誰にでもまっすぐ伝わると思っているか、そうでなければ暴力的に押し付けてやろうとするエゴが、こちらを気持ち悪くさせるという事に気付いていないように思う。


アニメは映像だから色彩のマテリアル性云々など言い様がない、と言うのは誤解だろう。発光するモニタだって当然色彩のマテリアル的基盤だ。おそらくアニメーションの制作の現場では、少なくとも10年くらい前まではセルや塗料、焼きつけるフィルムといった物質的基盤に拘束された色で構成していた筈で、この拘束が外れてからは、明らかに色が無神経(つまり、作り手の「この色をそのまま伝えられる」というエゴが露出した)になったと思う。そして、その破壊的無頓着さが、ここ10年で圧倒的に進行したのだと思う。そしてそれが、今や絵画の世界にすら悪影響を与えている、というのはトンデモな反動論にしか見られないだろうか。


実は意外なことに、デジタル化の進行が色彩の新しい可能性を開いていると思える分野があって、それは近年の若手の写真家達の作品を見て思う事だったりする。蜷川実花などはむしろ色彩を押さえた時に可能性を見せる人だが、もう少し積極的な所をあげれば、河原隼平氏や福居伸宏氏の写真に見られる色彩は、明らかにデジタルカメラとデジタル出力(モニタへの出力を含む)の特性に基づいたセンシティブなものだと思う。また下薗城二氏は、今ほとんど壊滅に近いモノクロ写真というものを見事に撮影できる数少ない写真家かもしれないが、この人の写真に見られる白黒の質というのは、どのようなカラフルな色の写真よりも、遥かに色彩として“機能”していて、珍しい例だと思う。