国立西洋美術館でベルギー王立美術館展を見た。率直に言うと僕が期待したような作品は来ておらず、ややがっかりした。フランドル地方というのはなんと言っても油絵の具の発明地なので、ファン・アイクとはいわないまでも、油絵黎明期のものが1つでもあればな、と思っていたのだが、かなわなかった。かろうじてブリューゲル一族の色彩にそんな感じの気配を感じたようにも思ったが、こんなのは残念な気持ちの投影なのだろう。ピーテル・ブリューゲル(子)の「婚礼の踊り」は性的なイメージに満ちた下品な画題だが、その色は経過年数を感じさせない鮮やかさで、ことにオレンジの美しさは印象的だった。


最も良いと思ったのはルーベンスの 「聖ベネディクトゥスの奇跡」で、これは未完成であることが原因かもしれないが僕がルーベンスを苦手とする理由の過剰な油っぽさがなく、ある種「シブイ」と思えるようなトーンをもっていて、そのような苦手な部分が剥がされてみるとやはりルーベンスという人の凄みが感じ取れる。僕が素晴らしいと思うのはタッチ、あるいはストロークの的確さで、とにかくルーベンスという人は細部を細かく「仕上げ」なくても、ほとんど一発の筆運びで人物の複雑なボリュームを見事にデッサンしてしまう。なまじきれいに完成させてしまった「ネーデルラント総督アルブレヒト大公」(これは協力者の筆も入っているようだが)よりも「聖ベネディクトゥスの奇跡」のような荒画きの作品の方が、ルーベンスの腕力を生々しく感じさせている。


もちろんこの絵で多くの人が指摘するのは、まず最初に下段の情景へと視線が引き付けられてから、聖ベネディクトゥスの奇跡におののく人々が階段から落ちそうになっているところを通過してベネディクトゥスその人へと観客の意識が引き上げられ、それがさらに天上のイエスの御業へと収斂してゆくという、横に長い螺旋を描くような群集劇の構成の見事さだろう。これが普通の比率をもった四角い画面で、垂直軸を中心に静的に構成されずに、あえて横長のフォーマットに渦をまくような導線を形成したあたりがバロックの人ルーベンスの真骨頂なのだというのはまったくそのとおりで、並んで展示されているドラクロワの模写なども、興味の中心はこのような画面構成にあると思える。ドラクロワの態度は後進として正しくて、画家としてこのような「構成」は模写などによって「学ぶ」ことができる。だが、どうにも学ぶことができないのが上記のようなタッチ、あるいはストロークの見事さだ。むろんある程度のデッサン力は訓練でどうとでもなるが、「ルーベンスストローク」というのは真似のしようがない。


昨日書いた、光琳による俵屋宗達風神雷神図の模作などは、もちろんその線の“追いかけ方”に集中力が凝縮されていて驚かされたのだが、やはり日本の絵画というのはあくまで「線」の性質であって、光琳くらいに自信がある人ならば、それを追い切ってやろうという気になるのかもしれない。だが、ルーベンスストロークというのはほとんど線というものから逸脱した、三次元的モデリングを含めた筆の運動なので、こうなってくると滅多にその運動をトレースしてやろうという勇気は湧きづらいかもしれない。もっともドラクロワドラクロワで名手なので、この2点が並んでいるのは見ごたえがあった。


展示が近代になると急につまらなくなるのだが、19-20世紀になるとそれなりにビッグネームが出てくる。あまり興味はなかったのだが、クノップフについて写真との関係を示すキャプションがあって、この作家の作風が初めて腑に落ちた。「シューマンを聞きながら」などは、なにかリヒターのフォト・ペインティングに近い感触をもっているようにも思えて、19世紀末的耽美趣味で見るよりは、そういった視点のほうが生産的に思えた。ヴァン・ダイクという画家は、いつ見ても「品質」にバラつきがなくて、安心して見ていられる画家なのだが、どうにも「本当に面白い」と思えるポイントを見つけることができなくて、それは今回も変わらなかった。ウフィッツィやピッティ宮で見てもこの感覚は変わらなかったので、ヴァン・ダイクという画家においてこのようなあり方は、かなり重要な何かなのかもしれない。


●ベルギー王立美術館展