ICCのリニューアル・オープニングイベント「ネットワーク社会の文化と創造」の全体が、ダウンロードして視聴することができる。

恐らく司会の浅田氏が作った流れなのだとは思うが、宮台氏、斎藤氏といった学問的・精神分析的立場からのプレゼンテーションの後に「(わけのわからない)アーティスト役」が登場して場が活性化される予感を示す(アーティスト藤幡氏は、もう序盤からその所作において-すなわち一人最も大きな声で笑い、姿勢を崩して座っている-役回りを演じている)。この構図に少しだけ引いてしまうが、もちろんこんなのは無いものねだりだろう。現状ここまできちんと啓蒙的なイベントというのはどこの美術館でも美術大学でもめったに行われないし、そもそもアーティストの社会的な有り様、または根本的にアートなんてものが必要なのかという基礎的な問いを立てて論理的に検証していくというのは、結論にやや予定調和的なものを感じるとしても参考になる。一番素晴らしいのはICCがこのシンポジウムを記録し、無料で公開してダウンロードまで許可している点だ。これだけで一時閉鎖が噂されていたICCがなんとか再スタートを切った意義が確認できる。


上で「予定調和的」と書いたが、藤幡正樹氏の作品(正確にはその再現映像だが)が、けして全面的に明るくは無いという「ネットワーク社会」の分析及びそこでのアートの立ち位置が示したムードを払拭していったのは、なにも講演の“構造”だけによるものだけではなく、藤幡氏の作品の持つポテンシャルがそれなりに会場に理解されたためだと思う。結局「作品」の持つ意味や位置付けというものは構造的に把握されるようなものではなく、このように作品それ自体の魅力によってしか確認のしようがない。ぶっちゃけどんなに環境が楽観的だろうとつまらない作品を見たら「こんなものいらねぇ」と思うものだろうし、いかに悲観的な状況であっても作品が面白ければ、その存在にポジティブになれる。


僕はここで紹介された藤幡氏の作品「無分別な鏡」を京橋のASK art space kimuraで昨年見ていて、いわゆるメディアアートといわれる作品で驚く程「絵画的」な(こういってよければベラスケスのラス・メニーナスのような)アプローチがなされている点に驚いた憶えがある。多くのメディアアートが退屈なのは、主にその武器を先進的なテクノロジーというやたら短期的な正味期限しかもたない新鮮さに依存しきっていて、しかもそこに単純な「操作性」を付け足して観客に「プレイ」させるという、およそ遊園地や商業ゲーム機を敵にまわしたら笑い者にされてしまうような陳腐な「楽しさ」しか保持していないためだ。


ここで藤幡氏が示していたのは、いわば視覚というシステムが生み出す間隙を主にテクノロジーの視点からあぶり出すというもので、むろんその作品の構造(つまり藤幡氏の思考の構造)はテクノロジーを組み上げずらしていく中から産出されたものだが、実現した「作品」が喚起するのは、もはやここで使われたテクノロジーの幅を超えた、視覚一般に関する普遍的な問題となっている。ものを見る、あるいは見られるという事について考えるならば、この「無分別な鏡」はメディアアートという枠組みとは無関係に絵画、彫刻、映像といったジャンルから参照しうるし、もちろん商業メディアや、下手をすると恋愛で悩んでいるような人にまでヒントを与えられる筈だ。こういうのをアートと言うのであって、たかだかパソコンやらセンサーやらモニタやらがごてごて組み合わされてなんだか観客にあわせて光ったり動いたりする程度のものはアートではない。


藤幡氏はシンポジウムで「日本のアーティストにはメタレベルがない」と発言しているが、僕の理解ではこのメタレベルという言葉はコンセプトと言い換えられる。恐らく「コンセプチュアルアート」というものと混同されることを恐れて藤幡氏はメタレベルという言葉を使ったのではないかと思うのだが、いずれにせよこのメタレベル=コンセプトというのは、いわば“時代の磁力”から切り離された、あるいは“時代の磁力”を相対化しうる「場所」ともいうべきもので、こういった「場所」を確保しようと思った時、なまじ先端的な「メディアアート」というジャンルにいることは逆にある種の困難を生み出すことになると想像してしまう。この時、藤幡氏が立脚するのは「メディアアート」ではない「メディア」そのもの、そしてそれを支えている技術そのものであって、そこで藤幡氏が見つめてしまう技術が、いわゆる一般的な「技術」というもの=技術のイメージから外れ、イメージを剥ぎ取られた不可解な何事かとして露出してしまうのだと思う。これは、例えば優れた画家が図像=イメージを通り越して絵の具という奇妙なもの、さらに絵の具を構成している物質という奇妙なモノに触れてしまう、あるいは物質を操作していった先にあるイメージが浮上してしまうという状況に近似している。


違う事も言えて、藤幡氏の作品がシンポジウム会場で観客に魅力的に見えたのは、実はビジュアルの面で藤幡氏の作品が「きれい」であったという要素がかなり大きいと思う(ことに最初に紹介されたものなどはそうだろう)。ここには藤幡氏自身が言及していた、「日本においては芸術=芸事だ」という事情から、壇上のパネリストを含めた観客も、そして藤幡氏本人も自由になれていないという事があらわになっていて興味深かった。これまた藤幡氏が自ら言っている通り、藤幡氏の作品はミもフタもなく「上手に」まとめられていて、ごくシンプルな意味で美しい。そういう意味ではややラフな仕上がりを見せている「無分別な鏡」の方が個人的には好きなのだが、このラフさがまた絶妙にセンスのいい「ラフ」だったりするので、僕自身このような“日本的”条件から自由なわけではまったくない。どころか、日本においては「お手本」があってそれを「上手に」修得することが「芸事=芸術」になっているというのは抜き差し成らない僕自身の問題でもある。西欧というお手本を修得するのが日本の近代だったと言って済ましてしまうにはあまりに強固な枠組みなのであって、わりとさらりと流されているが、ここが一番コワイ部分に思えた。


このシンポジウムの結論部分で「アングラ的なるもの=マージナルなもの」が賞揚されているからといって、よし、マージナルで行こうなんて考えてしまうのは絶望的なんであって、僕はここで藤幡氏が見事に演じている「わけのわからない事をするアーティスト」なんていうのはぜんせんつまらないと思うし、むしろ明解であるべきだと思う。そしてあくまで基本は本質的な意味でメジャー=時代や領域/地域を超えて参照しうるコンテンツを目指すべきだと思う。だいたい藤幡氏は知的なアーティストなわけだし、もちろんそこは藤幡氏も「あえて」の振るまいなのだろう。