絵において一番楽しいのは絵をえがくことで、それ以外の事は付随的に楽しいか一番の楽しみを成り立たせるためにガマンしてやらなければならない面倒臭い事だったりする。僕にとってはパネルを組むことなどは「楽しみを成り立たせるためにガマンして」せざるをえない事だ。世の中には本当に手先の器用な画家がいて、パネルを組むのが楽しくてしょうがない、といった風だったり、そこまでいかないまでも「なんでもない、あっと言う間にできちゃう」といった感覚の人が少なく無い。


僕はこういうのが基本的に苦手で、こと工作的な事になると苦痛になってしまう。規格の木枠というのはそういう意味では本当に効率良く出来ていて、僕のような人間でも100号を超える絵が描けるのは木枠と言う洗練されたツールがあればこそだ。できることなら規格サイズだけでやりたいというのが本音なのだけれど、やはりそこには一種の怠惰が紛れ込んでしまうので、製作のプロセスによってはいやがおうでもパネルを組まなければならない。


12月に始まる那須の個展には今年の成果物から選んだものを展示することになるのだけど、今年(正確には3月)に最初にはじめたのが、いつかも書いたがロールキャンバスから規格サイズの画布を切り取った残りの、ほそながーいパンの耳みたいな画布に絵の具を乗せるという作品で、気がつけば今年描いた絵のほとんどが規格に納まらない細長いものばかりになってしまった。


これをそのままパネルに張らずに展示すれば楽は楽だし、実際僕の中のある問題意識を提示する試みともなるのだろうが、そうすると見えて来るのは実は「絵の外側」つまり絵画における制度性とか形式性、物質性といった事になる(シュポール/シュルファス)。そういったものと絵の「内容」を切り分けることなどできないのだけど、そうは言ってもまずはその部分をカッコにくくって「絵画」を見てもらいたいと思うと(逆説的な言い方になるが)描いている状態そのままの画布を素で出してはダメで、やっぱりパネルに張らざるをえない(作品に余計なものを加えないために、パネルという余計なものを加えなければならないのだ)(もっとも、そういう「画布だけ」という展示もチャンスを見つけてやってみたいのだけど)。


といわけで、アトリエにぶら下げていたり丸めていたりした作品を虫干しよく並べ直しては選び、そのサイズを計っては、とりあえず小さな物からパネルを造ることにしたわけだが、これがしんどかった。材を近所のホームセンターで選び、簡易なメモを渡してカットしてもらった。頼みの綱のドライバーはお買い物に出かけてしまい(僕は免許がない)、ホームセンターの台車を借りて片道30分徒歩で運んだ(無論台車は同じ時間かけて返却した)ら、自分の計算ミスで1cm長い材が10本も出てしまって泣く泣くのこぎりで再カットするというバカをやった。だが、なんとか予定のパネルは作ることができた。


こういう、ものすごく単純な面倒さを通り抜けないと絵を製作することはできない。もちろんお金がある人ならパネル製作など外注することはできるし、運搬に関しても同じだが、それでも例えば絵の具は乾かなければ基本的に展示することができないし、そういった物理的制約を踏まえなければ現実のものとして作品を立ち上げることはできない。イメージやコンセプトだけで作品ができるわけではない。もう少し踏み込んで言えば、そういった面倒さを、例えばお金やシステムで全面的に回避してしまった時、絵画を描くという姿勢において、かなり重要なところがスポイルされてしまうのではないだろうか。木材が接着剤や釘で固定され、そこに画布が張られるという構造が、身体的なレベルで感知されていないところで作られる絵というのはどこか信用できない。


例えば大家がアシスタントにこういった労働を全部やらせているというのはありがちな話しだが、大家が大家になる過程で作品になんらかの形であったアクチュアリティが、大家になった後薄れていってしまうというのもありがちな話しだったりする。単に精神的に老いた、ということではなく、労働という面において老いてしまうと、どこか絵画の「中身」におけるリアリティが影響を受けてしまうと勘ぐるのは、まぁ深読みかもしれないが、いずれにせよ絵画製作というのは、かなりの部分で肉体労働な筈だ。こういった労働からしか産まれない知というのが確実にある。それこそ、これだけの材を一人で運べるか、運べないとしたら現実条件の中でどのように工夫して所定の結果を出すか、といった「知恵」になるのかもしれない。そして、そういう知恵が消えると、いろんな事がヤバくなってくると思う。