ストローブ=ユイレの映画がアテネ・フランセでまとめて上映されていて、後半のいくつかを見に行った。彼等の映画を見ていると、「こわくて美しい」と思える。とりあえずは「美しさ」が感受できることは重要だろう。ストローブ=ユイレの映画が難しいと思われやすいのは、いわゆる「劇映画らしさ」がなく、「劇映画らしさ」に観客として“のっかる”ことが出来なかった時、その代替物を「物語り」に代用させようとして「台詞」にばかり注目してしまい、その「台詞の解釈」に巻き込まれてしまう為ではないか。実際ヘルダーリンギリシャ悲劇に通じていない僕は、その「台詞の理解」に関しては全然手がかりがなく、これはこれで確かに理解できないより理解できたほうが映画の送りだす情報を的確にキャッチできるのだろうとは思う。が、しかしそんな事を知らなくても、ただストローブ=ユイレの画面を見ていれば、そこに写るすべての事物が粒だって見えてくる。そのとき教養や映画経験の備蓄は前提的に必要なものではない筈だ。


日中の森に分け入って、自分を包み込む植物の葉のきらめくような輝きに感動し、思わずそこで数十分間何をするでもなく佇んでしまうようなことは、とくに特殊な事ではないだろう。そのような感覚が理解できる人にとって、例えば「ルーブル美術館訪問」の最後に写し出される森の風景が、何が起こるでもなく数分間写る事は難しくはない。その豊穣な光と音を感受すればいい。文脈がわからない、ということも無いはずだ。「ルーブル美術館訪問」では、ヴェロネーゼを賞揚することを基点に色彩の輝きが重視され、クールベが取り上げられて、世界になんの装飾も与えることなくそのまま提示することこそ素晴らしいのだ、と語られる。たったこれだけの事が理解できれば、最後に森の鮮やかなパノラマがただ映され、しばらく時間が経過してゆくことにどのような謎も発生しない。重層的なこの世界は美しい。映画はそれを的確にとらえればいい(フィルムとカメラを経由してスクリーンにそれを再現するのはとことん困難な筈だが)し、それさえ出来れば、観客が貧しく無教養な人々であっても映画として成り立つ。「映画」を知っているつもりになっているプチブル(すごい言葉だ)が「映画らしさ」を期待した時だけ、ストローブ=ユイレの映画は極端に難解に見えてくる。


同時に、そのような「美しさ」は、「こわさ」と接続しているからこそ「美しい」。森や都市の地下に様々な悲劇が、喜劇が、戦争や暴力や革命が、挫折や思索や文学や絵画が、つまり歴史というものがあって、そういう全てがあるからこそ世界は単に美しいのではなく「こわくて美しい」。ストローブ=ユイレの映画が映画に詳しい人や知識人だけに向けられているのではなく、常に潜在的な“労働者たち・農民たち”に向けられていることは「シチリア!」を見ていれば理解できる。ここで念頭に置かれているのは、あくまでストローブ=ユイレにとって理念的な意味での“労働者たち・農民たち”だろうが、誤解を恐れずに言うなら、そのような無垢なるものにこそ“歴史の授業”が行使されるのだろう。


ただ、それはあくまでヨーロッパ(での階級)を念頭において制作されている映画で、アジアの日本でどのように受取られ得るかは、別途検討の必要はあるとは思う。眠くなる瞬間があるとすれば、不意にここで写し出されるものが、いかに美しくても一瞬「自分達には関係ないのではないか」という思いがよぎってしまう場面でかもしれない。ドキュメンタリー「映画作家ストローブ=ユイレ」の中で、不意に今国立近代美術館フィルムセンターで平行して特集されている(偶然だろうか)溝口の名前が出て来たりするし、僕が見のがした「アーノルト・シェーンベルグの《映画の一場面のための伴奏音楽》入門」ではベトナム戦争の映像が出てきたりもするらしいが、ストローブ=ユイレが自らの語る範囲をヨーロッパに限定しているのは確からしく思える。ここには、はっきりとは語れないが大きな断層があるはずなのだ。


ストローブ=ユイレはどうしたってセザンヌと結び付けて語られるのだろうが、その画面はどちらかといえばフェルメールを想起させる。「ロートリンゲン!」で写し出される、開巻直後のパンの終結部の、川の上に輝く白い雲のある空、あるいはやや高い所から撮影された曇り空に銀色に光る町のパノラマは、セザンヌというよりはフェルメールの「デルフトの眺望」に近い。フェルメールピンホールカメラを用いて描いた絵画は、そこにレンズがもたらす光の屈折がそのまま定着したような光子のゆらぎが見てとれるが、ストローブ=ユイレの映すパノラマも、やはり満ちる光がカメラとフィルムによって粒子的に分解され、それがコマの連続映写によって振動するかのような泡立ちを見せる。「シチリア!」で主人公が辿り着いた故郷の風景を、時間帯を変えてまったく同じく2度パンさせるところなどはモネ、あるいはドービニーを思い起こさせるが、そのような光の変化が立体的に浮かび上がらせる世界を捕らえるのには2度撮影する必要があって、ストローブ=ユイレはそれをそのまま実行したのだろう。


「放蕩息子の帰還/辱められた人々」で、あるコミューンが崩れ去っていく残酷さのバックグラウンドになっている谷あいの豊かさは、物語りと相乗効果を起こしてぞっとする程だ。この映画では、木漏れ日のキラキラする光りと同時に、そこに満ちる音に押しながされそうになる。虫の羽音、鳥のさえずり、風がゆらす木々の枝の音、流れる小川の水音が溢れて洪水のように劇場を埋めて耳が痛い。そこに流麗ではない役者の台詞が重なることで、音が、映像の光りと同じように粒子的に屹立しはじめる。そういった意味では完全に室内で撮っている「今日から明日へ」などは、見方によっては「難しい」と言えるのかもしれないが、これは今度はオペラをまともに映画にしてしまった事で、オペラと映画の溝が露出してしまい、逆説的に映画というものをくっきりと写し出す。このズレが端的に言って笑える(僕は会場で声を堪えるのに苦労した)。ミュージカルの可笑しさをネタにしたウッディ・アレンの「世界中がアイ・ラブ・ユー」という映画があるが、ネタではなくマジな「今日から明日へ」の沸き立たせる笑いは、恐らく役者の顔をかっちりと捉えていることから発生している。


顔、ということなら「シチリア!」はほとんど顔についての映画にしか見えない(僕は見た中ではこの映画が一番好きだ)。冒頭のオレンジ売り、列車の中の元地主、主人公の母、研ぎ職人と、美男美女がまったくいないどころかプロフェクショナルな役者ですらないような人々の顔が、やたらと強く刻印されていく。全体に丸みを帯びてざらりとした質感の登場人物達は、暗闇から光りのノミで切り出された彫刻のようだ。ことに母親の家の中での親子の対話は、その黒白のコントラストの厳しさが二人の関係性と重ね合わされ、非常に高いテンションを保っている。ここの引き絞りがあるからこそ、その後の研ぎ職人との会話(世界の記述)が、ある「開け」として開示されるのだろう。このシーンも可笑しく切ない。イタリア語というのがこうも耳に染込むというには、多分フィレンツェにいた時以来の事で(多分フィレンツェで聞いたイタリア語と少し違うと思うのだが、朗読のせいだろうか)、映画でしかないはずなのに、こうも言葉、というか声が生々しいのが不自然な気がした程だ。


これは確かにDVDで見ても厳しいだけの作家だろうと思う。スクリーンに上映されるフィルムを透過した光りで、相応の音響設備で見ないとほとんど意味がない作品群で、ハードルが高いと感じるのはその1点だ。ゴダールの方が遥かにDVDでの鑑賞に向いている。同時に、ゴダールよりもずっと原理的な意味でシンプルな作家なので、前述の通り映画通ではない人の方がむしろストレートに見られると思う。作品を単に見る、ということができる人が今どのくらいいるのか、というような問いをする人もいるかもしれないが、映画通ではない僕が思わず「生まれて初めて映画(という形式でないといけないモノ)を見たかもしれない」と感じたのだから、やはり映画に無知であってもかまわないと思える。あるいはそういう人こそ見るべきなのではないか。


細部で確認したかったのは「画面の隅っこ」で、アングルがどうとかショットがどうとか音がどうとか言う前に、スクリーンの四隅がどのように処理されているのかに注目した。僕は以前、「セザンヌ」のDVDを見てそこにフィルムの隅が写りこんでいることなどに注目し、この作品には映画というメディウムが刻印されている、というような事を書いた事があったのだが(参考:id:eyck:20060323)、今回僕の見た回の「セザンヌ」では、「ボヴァリー婦人」の引用部が明けた後のショットで画面上の左右が丸く欠けていたのが見てとれたものの、DVDでのような、あからさまなフィルム隅の写し込みはなかった。とはいえ、徹底したフィックス画面がもたらす微細な画面の振動がセザンヌのタッチと共振を起こし、フィルムの傷やコマの繋ぎから出るブレが強く感受されて、結果的に映画というものが浮上している、という印象は、DVDより遥かに強く見てとれた。


ストローブ=ユイレの軌跡