1/2にNHK-BSハイビジョンで5時間以上のフィレンツェ特集番組があった。現地からの生中継を中心にしていて、年賀の挨拶で行った配偶者の実家で楽しみに見た。なにしろ僕は去年の1/2に日本を発ってフィレンツェに4泊したのだから、ほぼ同じ季節の現地を歩いていたことになる。僕らが訪ねたときにはあったドゥオモの登頂部のランタンを覆っていた補修用の足場がとれていたり細かな違いはあったのだが、1月の空から降り注ぐ光線は生々しく思いかえせた。


現地時間で午前10時くらいから番組は始まり、お昼を過ぎて4時くらいまで、大聖堂前広場、シニョーリア広場、ポンテ・ベッキオ、ピッティ宮といった場所から次々とライブで届けられる映像では、少しくすんだ石作りの町が、低い太陽から送りだされる斜めの日光によって立体的に浮かび上がっていた。そのあまりの「自分が見てきたまんま」な感じに、時間の感覚がおかしくなりそうでどきどきした。ちょうど1年前、という事実が、1年にあった様々な出来ごとの量を実感的に把握できそうなものとして思い起こさせ、同時に中継画面のリアルさが、なにか「つい今さっき自分はこれを見てきた」というような錯覚に僕を陥らせる。


この矛盾する感覚が両立して自分の中に沸き上がってくるのは、先に言った、映像の中の「光」が、ジャストで自分の1年前のフィレンツェの記憶と重なっているためで、そのうち気温とか、匂いとか、空気の肌触りみたいなものまで総動員されて蘇ってきてしまった。ぼくはハイビジョンの映像というものを、きちんと対応した受像器でこれだけじっくり見たのは初めてなのだが、たしかにその解像度は、かなりな程度でフィレンツェを包む冬の日光を粒子的に捉えていたと思う。もちろん、僕が「自分が行ってからちょうど1年後の中継だ」という前提から想像的に補完してしまっていたところもあるのだろうけど、それにしたって自分の家にある古いテレビよりは遥かによく臨場感を感じとれた。町中から拾われた「音」もその臨場感を補強していた。


とは言うものの、けして過剰にのめり込んだりしなかった(つまり感覚としてはかなりビビッドに刺激を受けることがあっても感情としてはクールでいられた)のは、ハイビジョン映像のきめこまやかさを除いた「番組」としては、正直がっかりさせられたからだ。まず映像に関してはレンズの選択がなにかと広角に頼っていて、画面がきつく歪んでしまっていた。事情はわかる。フィレンツェというのは狭い町だし、そこでサンタ・マリア・デル・フィオーレとかを全体として捉えようとすれば広角を使わざるをえない。引いて対応しようとすればサンタ・マリア・デル・フィオーレのファサードは洗礼堂に隠れてしまう。だからある程度はしかたがないのかもしれないが、それにしても随所で、画面上のおさまりを優先しすぎて不自然な角度(画角だけでなく、アングルも含む)が多すぎると思えた。ライブ感がこの番組の売りだったのだろうから、多少おさまりが悪くても、歪みや不自然さの気にならない絵づくりをしても良かったのではないか。


こんな事以前に、とにかく中途半端な工夫をしすぎなのだ。出演者がしゃべりすぎ(またその中身が貧しい)だし、ちゃかちゃかと細かいスパンでカメラを切り替えすぎだし、中継の合間に挟まる途中のVTRは、部分的には教養情報(クーポラの組み方とか)として有益だったものの音楽で盛り上げ過ぎだ。「ライブ感」を伝えるために出演者の町あるきにカメラがついていくところにしても、いちいちイベントが仕掛けられていて落ち着かない。とにかく「間」をあけるのが恐いらしく、常に何かを起こしていないと不安でしょうがない、といった5時間30分だった。しょせんは緻密にしにくい長時間中継番組なのだから、多少のリスクを押し切って、黙って固定カメラでフィレンツェの町をじっくりみせる、みたいな時間帯がどこかにあってしかるべきだ。なんだかサスペンションの悪いバスに乗って悪路を走り回っているみたいだった。


対して1/3にBSジャパンで2時間放映された「ヴァザーリの回廊」というプログラムはテレビ番組として野心的だった。去年の作品の再放送のようだ。中継ではないから「ライブ感」というものはないが、別種の緊張感があった。なんと80分にわたってフィレンツェのベッキオ宮から通路を通ってウフィッツィに入り、そこからヴァザーリの回廊を通ってポンテ・ベッキオ上を通過し、対岸でボーボリ庭園の一部をかすりながらピッティ宮にいたる行程を、合間あいまに絵画を写し出しながら通しで見せるというもので面白い。流石に1回で通して撮影したのではないことは、CM前後で先導する奥田瑛二の黒いスーツの背中にカメラがどんと寄って画面をふさぎ、そこを編集ポイントにしているらしい様子で判明するが、とにかく最小限度に押さえられた出演者、シンプルなナレーション、わずかしか音楽をつけず堂々と無音でシーンを見せるなど、文化番組として極上の部類に入るだろう。


なにぶん僕はヴァザーリの回廊は見ていないから、この番組の主要なパートで「一度見てきた懐かしさ」みたいなものを感じ取り、画面の魅力を自分から補強することはあまりない(それでも不意に回廊の窓から見える風景に胸が震えたりしたけど)。にもかかわらず、この番組が面白かったのは、ベッキオ宮-ピッティ宮という、フィレンツェをつらぬく通路だけを、その通路に即して切り返しも別ショットの挿入もなくみせるというコンセプチュアルな試みが、80分という時間を密度あるものとして立ち上げていたからだろう。もちろん、上記のように一発どりではないという点があり、更に奥田暎二の中途半端な芝居仕立ての導入部も安っぽかったし(奥田瑛二という人物は、なぜこうも「芸術」に近付くととことんイージーになるのだろう)、彼を導く現地のイタリア人にヴァザーリの時代の衣装を着せたりするダサい趣向もないわけではない。


最悪だったのが、ウフィッツィでのボッティチェルリやレオナルドの絵画、ヴァザーリの回廊のいくつかの自画像、ピッティ宮にあるラファエロの絵画を映すシーンで、通路を歩いていくカメラではガラスケースの反射などを押さえられないためか別撮りのショットを「嵌め込んで」見せていた事だ。さらに修復に出ていたフィリッポ・リッピの聖母子は、粗悪なコピーをパネルに張って登場させていた。この無神経さには腹がたった。製作者側としては絵画を見せながら、しかもカメラが順路を一度も途切れることなく追っているというアリバイ(そんなアリバイは先に書いたようにまったく怪しいのだけど)を崩さないための判断だったのだろうが、せっかく「ヴァザーリの回廊」というモティーフに寄り添って番組を作るという姿勢はよかったのに、ここではその姿勢自体が重要視されてしまって絵画を犠牲にしてしまうという本末転倒な事になっていた。多少の写り込みはガマンするから、とことんまで通路を追うカメラで絵画をきちんと映す努力をしてほしかったし、それができないと諦めたのであれば、アリバイはすてて黙って全画面を使って正面から真直ぐ捉えた絵画をFIXで映すべきだったと思う。ウフィッツィでリッピの名をけがすようなコピーを映すくらいなら、そこはスルーして「森の中の幼な子キリストへの礼拝」を撮る、というのが正解で、このミスは製作側の絵画へのセンスの無さを露出してしまっていた(リッピに関してはピッティ宮の「聖母子と聖アンナ」の前を素通りするという不可解なプランも気になった)。


もっとも、奥田瑛二に極力喋らせずナレーションを別取りにし、小谷真生子の押さえたトーンで流すというのは素晴らしい判断だった(彼が話せば話すだけ番組がダメになる)し、最後に改めて取り上げた絵画を最小限のBGMだけで(絵の切り替えの時にピアノがかかる)映したのは、絵に関して判断ミスしかしなかったこの番組が見せた、最低限度の良識ではあった。だいたい、これが本当に編集ポイントを作らない1発撮影で絵画も同じカメラでしっかり見せることができたら、まかりまちがうと文化番組というよりは“表現”になりかねないから、流石にそこまで求めるのは無理なのだろう。しかし、もう少しだけ頑張れば(そして絵のことが分かるスタッフを一人でも入れておけば)より良い番組になっただろう。


どうひっくり返してみても、本来NHKがCM抜きでやるべき番組だったし、この番組がNHKの中継の翌日に再放送されたのは、明確にNHKにとって不幸だった。というよりも、BSジャパンNHKの中継の中身を事前に知って含み笑いをし、放送される前に自らの作った番組の勝利を確信していて、あえて翌日の似た時間帯に再度放送したのだろうか。ともかく規模や予算、という意味では恐らくNHKの方が上回っていたであろう正月の「フィレンツェ番組BS対決」は、ほぼBSジャパンの完勝だった。どちらも録画したのだが、自分の家のテレビはワイド画面に対応しておらず、細長く圧縮されて再生されてしまって悲しかった。