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DVDで「バーバー吉野」を見た。この映画はやや通俗的な言い方をすると「女子が幻想する男子」というモチーフが貫かれていて興味深い。いかにも「小学生男子」というものの生態をこまめに描いているように見えながら、というか「小学生男子」の細部を描けば描く程、そこで強化されていくのは「幻想としての小学生男子」であって、徹底的に“生々しさ”の排除が目指されている。そして、その丁寧な生々しさの払拭が、逆接的に「少年を欲望する視線の生々しさ」を感じさせる。
始まった直後から、このファンタジックな映画はその虚構性を、春先の田舎の風景の中を歩いているまったく同じ髪型をした小学生男子達の行列、という形で描いてゆくが、このシークエンスはあまりにも映画らしく美的に撮ろうとして失敗している。桜の花びらが散る田園風景や原っぱに慎重に配置された子役の少年達は、あからさまに「撮られている」という表情をカメラに向かって注いでいてぎこちなく、そのぎこちなさが無理矢理作られた「ノスタルジックな坊っちゃん刈り=吉野刈り」の不自然さを強調している。
こういった序盤の構築が失敗していながら、小学生男子の行動の細部を具体的に描き始めた段階からは、「バーバー吉野」はその細部が急にイキイキと虚構性を回転させはじめる。この映画では、主人公となる小学生男子達の欲望のあり方が即物的で、その即物性の一端として「女性」がいる。それは主役の少年グループ全員がオッパイが大きくなった同級生のことばっかり好きになってしまう、という設定や、都会からやってきた転校生がエロ本を提供することで仲間入りする、といった構造に現れているが、ここではまるで性的なアイテムがあからさまに扱われているようでありながら、実は一切「性」というものに触れていない。
以降、学校でウンコをした仲間をからかう少年達、じゃんけんで鞄を持ち合いながら下校する少年達、「ちょっとおかしい」人物と追いかけっこする少年達、秘密基地でだらだらとマンガを読む少年達といった具合に、いかにも実際の男の子が経験していそうと想像させる些細な行動が映されていくが、この映画で最も重要なのはこういった話しの筋と原則的に関係の無い「男の子達」の他愛無い仕種の積み重ねだ。これらが強い意思の基にリアリティを回避しつづけるのは、いわばこれが監督・荻上直子氏の記憶にある夢だからだろう。この映画がどこともしれない閉鎖的な地方都市という、ノスタルジックなイリュージョンを描きえる設定を必要としているのは当然の事となる。つまり、この映画で描かれる「男の子」は、実際の少年との徹底した断絶の上にあるのであって、荻上氏が一番無関心なのが「本当の男の子」だと言える。
「バーバー吉野」は、いわば幻想としての小学生男子のミニギャング的集団性をひたすらに愛玩している映画で、ここでは表面的には女性というものが排除されている。「オッパイが大きくなった同級生」は意図されてまったく人間性がなく描かれており、ただの記号としてある。この映画の少年たちにとって重要なのは「仲間意識」であって、同級生女子はその仲間意識を強化するための道具にすぎない。エロ本もまったく同様の機能しか果たさない。ここで描写される少年たちがエロティックなものに触れるのは、子供は全員同じ髪型にしなければならないという奇妙な掟に逆らって「家出」をして「合宿」をするシークエンスで描かれるホモセクシュアルな祝祭性の場面などであって、彼等は「女性」に触れないし触れようともしない。
彼等の髪型を同一に管理し、彼等にとっての「ちょうどよい」敵として立ちふさがるもたいまさこは、夢の母親として存在している。哀れに可愛い存在でしかない父親の男性性も吸収しながら巧妙に「女性」であることを回避しつづけるもたいは、いかなるセクシュアリティも発揮しない。この映画での「吉野刈り」は、言ってみれば包茎の象徴みたいなものだし、それを撃ち破る少年達は、割礼を通して性に触れる=モテるようになる筈なのだが、そんな事は起きはしない。この映画で性は排除されるためにこそ「おもちゃ」として存在するのであり、例えば割礼を終えたはずの少年は「オッパイが大きくなった同級生」のリコーダーをそっと吹くという、ちょっと見では性的なシーンでありながら、その実マンガのような「夢の少年に期待される性的行動」を期待通りなぞるだけで、まったく(女)性に触れない。どころか、このシーンでも補強されるのは目撃し、かつ見のがしてくれる男性教師との共犯関係だけで、延々と(女)性が回避されながらホモエロティックな感触だけが積み重ねられる。
この映画で夢見られているのは、いわば幻想の少年達が共有しあう即物性=迂回や抑圧のない直接性にみちた世界で、しかもその直接性だけが、暴力というものを確実に棚上げしながら、けっして手の届かない遠い幻のように丁寧に造形される。だからこそ、まるで女性を排除し男の子だけにフォーカスが合っているかのようなこの映画がもたらす感覚は、あまりにも「非男の子的」なのだ。表面的には女性を、根本的には男性を排除しつくした後にあるものが「どこにもいない少年への欲望」で、その欲望自体は強固に死守されている。かつて女性からの「少年へ視線」の表出は、例えば竹宮恵子の「風と樹の詩」に見られたように、一度少女を通過したものだった。竹宮作品での「美少年」は少女的な外見していたが、それは一度少年というものを少女と重ねることで「少年性」を殺し、その上で「少女」は「少年」にアクセスした。が、荻上直子氏の「バーバー吉野」は、女性も少女も排除し「少年の性的なアイテム」にダイレクトに接するように見えながら、その手付きにおいて恐ろしく繊細に性を脱臭し蒸発させ、少年にとっての(女)性をただの玩具として去勢してしまい、夢の庭園を構築している。
荻上直子氏の映画は、「かもめ食堂」を以前劇場で見たのだが、この映画でも一見“自然な”雰囲気を漂わせつつ、虚構を隙間なく組みあげるという姿勢は共通していた。「かもめ食堂」は小林聡美という女優(に表象される女性像)を、そんなそぶりを一切気付かせないようにしながらとことん「美人」に撮りたい、というモチベーションだけに駆動させられた映画だ。フィンランドという微妙にファンタジックな場所に男性を一切排除した日本女性三人の閉域を設定し、大人になった独身の女性を「自然に」捉えるようでありながら、まったくありえない程に「女性性の完全な虚構化」が敢行される。そういった欲望のある極北が「小林聡美の水着姿を“自然”に、かつ魅力的に撮る」というシーンだろう。自己啓発セミナーのようにプールで円形に配置された人々に小林聡美が取り囲まれて拍手を受ける、というシークエンスの終え方が、この監督がどこかで必ずやるあけすけに狙った感じでいやなのだが、いずれにせよこの、「バーバー吉野」にくらべると少々平板なこの映画は、ある一定の人々の願望を的確に捉えていたと思う。
「バーバー吉野」も「かもめ食堂」も、映画として魅力的かと言われると口籠らざるをえないのだが(ことに「かもめ食堂」の、その色彩に関するクウネル的ナチュラル趣味は耐え難い)、この静かでありながら妥協のない性的関係の生々しさの否定、というそぶりもみせないような否定のあり方は、ほぼ単性生殖への指向すら伺わせている。「男」であれ「女」であれ、そういった「対の性/恋愛幻想」というものに疲労しか覚えない人にとってはちょっと気になる感覚だと思う。