東京都写真美術館細江英公展を見た。僕が細江英公の写真を知ったのは大学の図書館に置いてあった写真集を見たのが最初だと思う。かなり古びたもので、けして良い状態ではなかったが、モノクロの強いコントラストによるヌードが印象的だった。その少々脆くなった写真集の風合いにもよったかもしれないが、どこか大学の図書館ににつかわない「ヤバさ」があったように思う。


この「ヤバさ」には「エロさ」が含まれている。そういえば僕らが子供の頃、親の目を盗んでこっそり見た「エロ本」には、まぁ今考えると他愛のないセミヌードや、様々な“工夫”で股間を隠しているような「エロ写真」が質の悪い紙に刷られていた。子供がそんなものを買うわけにはいかないから、雑木林に捨てられていたりしたものを小学校からの帰宅中にさがし出して皆で騒ぎながら見たわけだ。打ち捨てられた「エロ本」は当然痛んでいて、そういったテクスチャ自体に「エロ」というものが結び付けられていたように思う。


こんな事と細江英公の写真の質は、直接の関係はない。しかし、とりあえず写真の手触り・触覚性と「エロ」が連結しているというのは恐らく今では希薄な感覚で、およそどんなポルノグラフィーでも「データ」として流通している状況では(それがポルノでなくても)あらゆるビジュアルがただひたすらイメージの露骨さ、即物的なさらけだしによる像としてのインパクトだけを指向している。


細江英公の写真も、「おとこと女」から始まって「薔薇刑」「鎌鼬」と、極端に角度をつけたアングルやクローズアップなどを多用し、インパクトをあげる事だけに特化しているように見えるのだが、そこには抜きがたく「触覚性」への希求がある。というよりは、触覚性を獲得するためにこそビジュアルのインパクトが要請されているようにも思える。こういった「触感」を、写真という視覚的なものに刻印しようとしているところが細江英公の写真のもつ質に繋がっているのではないか。極論を言えば、対象がたとえヌードでなくても、細江英公の写真は決定的にエロいのだ。


たとえば細江氏の写真を雑誌に印刷するとき、まず間違い無くオフセット印刷よりはグラビア印刷の方がオリジナルプリントの感触に近付くと思うし、紙はコートされたものより非コート紙のほうが良いかもしれない。グラビア印刷は、単純化すれば銅版エッチングの技法による印刷技術で、銅メッキされた鋼板を(ほとんどは腐食ではなく機会彫りのはずだが)セル状に彫り、その深さで階調表現ができるため、一時期は写真の印刷はたいていグラビア印刷で行われた。


オフセット(これは単純化すればリトになる)の技術進歩で今ではたいてい写真印刷もオフセットになっている(男性週刊誌の「グラビア」は、現在ほぼオフセットで刷られている)が、インクの質感に優れていたのはグラビアだ。オフセットでは、フラットな刷り上がりで鮮やかさが増す。細江氏の写真では「像の鮮明さ=解像度」よりも明らかに重要なものが存在し、それが写真の触覚性、言ってみればマチエールなのだということは、今回の展示で明瞭に示された、細江氏における焼き込みの技法の重要さに見てとれる。これを印刷で再現しようとすれば、やはりグラビアが適正だと思う。


細江英公の写真で行われるクローズアップ、極端なあおり構図、中間調子を犠牲にしたコントラストの強調、といった技法は、対象から意味をはぎとる、というよりは明らかに意味を強調し増大させ、むしろ沸点にまで押し上げ熱によって変容させようとするかのような効果を持つ。このとき、細江英公の写真には加熱できる「実体」が明瞭にある。いかに幻惑的な視覚イリュージョンが様々に探究されていたとしても、そこで操作されているのは単なる「画像」ではない、重量と抵抗感を持ったマテリアルなのだ。いまやデジタル画像の操作技術では、およそ細江氏が産み出した視覚効果などすぐにトレースできるだろうが、オリジナルプリントであれ印刷物であれ、その質量の重さはなぞることができないだろう。


全体にロマンチックで美的であることは間違い無いが、それがどこかでイメージを破り、金属的な鋭利さ=ヤバさを感じさせるのは、その“物語り”の構築が過剰すぎて「演出」とかいったレベルではないところに触れているからで、その質感は微妙にロバート・メイプルソープを想起させながら決定的に違う方角を向いている。ロバート・メイプルソープのプリントが、最終的に冷たく乾いた表面を見せるのとは対照的に、細江英公のプリントは確実に熱を持ちウエットな感触を感じさせる。細江氏は対象と断絶せずむしろとことん近付き強固に食い込んだ中でそのイメージを変容させるべく加熱しているので、そのようなリアリティこそがファンタジックに見えるのではないか。


●球体写真二元論