ひぐちアサのマンガ「おおきく振りかぶって」が面白くて熱中してしまう。高校野球を異常に微分的に描いたマンガで、驚いたことに既刊7巻の単行本、連載期間3年以上を費やして、なんと高1夏の甲子園予選の1試合目が終わっていないのだ。こんな異常な展開の原因は試合の描写が、ほぼ1プレーどころか1球ごと、キャラクターの一挙手一投足ごとに描かれているからで、こんなペースで続いたら20年たっても30年たっても終わらない(これがあながちあり得なくないのは、作者が平気で「私はこのマンガを一生描いていたい」などと発言しているからだが)。最初から最終回みたいなテンションを一貫して持続させているのが「おおきく振りかぶって」というマンガで、こんな自爆するに決まっているような無茶は、一体どこから来ているのか興味を持たざるを得ない。


刺激的な言い方だが、ひぐちアサという人はマンガが描けない人だと思う。それはまず第一に画力の問題でもあるが、もっと基本的には思考形態の問題だ。このマンガ家は、根本のところでの思考形式が「マンガ」ではない。高橋留美子がコマ割りという、純マンガ的な形式によって作品を思考し構築している事とくらべればよくわかる。ひぐちアサは、まず最初に「マンガでないもの」から思考を開始し、それをマンガに「翻訳」しているからこそ、そしてその翻訳の精度に関してぎりぎりまで妥協をしないからこそ、ほとんど逐次的な描写(描写、というのは、もちろん描くべき対象が描きの形式の外部にあって、それを別の形式に翻訳する、ということだ)が必要になる。


結果、いつまでたってもその描写が終わることなく延々と続けられてしまい、地方予選の一回戦が、年の単位を消費してしまう。描写=翻訳というものの長さが一番わかりやすく理解できる例には谷川俊太郎の詩「定義」があるが、「おおきく振りかぶって」の中で繰り広げられている高校野球、その中で無数に心理を断片化させ、関係が結ばれ、あるいは解かれていく少年達の、終わりの無い描写は、ほとんど谷川俊太郎の詩みたいになっている。


ひぐちアサは、そのスタートから一貫して「マンガにならないもの」を「マンガに翻訳」してきた人かもしれない。高校生の同性愛を描いたデビュー作「ゆくところ」から、再婚した母親の死後の義父と兄・妹を描いた「家族のそれから」、読者を背後から爆破するような展開を見せた「ヤサシイワタシ」と、いずれも「描きようのないもの」を描くことで成り立っていた。描きようのないものを描く、といった時にひぐち氏がとったのは、主要なポイントのほとんどを「台詞にする」という凄い手段で、ことに「ヤサシイワタシ」においては、自壊に向かわざるを得ないヒロインと、喪失の中から微妙な綱渡りをしていく残された主人公(と従姉妹)の心理を膨大な台詞とぎこちない作画で強引にマンガに押し込んでいた。


ここで、その「描けなさ」を埋めていたのが台詞だからといって、この作家が言葉で思考していると考えることはできない。「ヤサシイワタシ」の台詞群ですら翻訳の痕跡なので、冷静に筋を辿るとほとんど論理の体をなしていなかった言葉の渦は、絵でも言葉でも描けない何事かの“周囲”を、不格好な言葉と絵で包囲しつくすことで、表象不可能なデッドポイントを「穴」として表象していた。


おおきく振りかぶって」が、以前のひぐちアサ作品にあった一種の安易さ(表象不可能なものを「穴」として浮かび上がらせることで深みや重さを作品の効果にしてしまう、といった構造)を逃れ、むしろ描けないものすら描き切ってしまおうという、やぶれかぶれの正面突破、「穴」に依存せずそこから反転し充実の沸点をもたらす超健康な高原状態に突入しているのは、この作家が「描けるようになった」からではない。描けない中で、しかしなお徹底的に描くという手法を貫いているからだ。


具体的に言えば、ひぐちアサは、描くべきものを、これ以上できない程細分化してしまい、1つのコマに、その細分化されたわずかな事しか描かない。大きく、複雑なものは描けなくても、それを滅茶苦茶に分解してほんの僅かな兆候にすればなんとかなる筈だ、という確信が細かな描き分けになり、結果作品をエンドレスにしてしまう(だから、中学の時徹底してダメピーだったピッチャーが、そのダメさを抱えながらそれを押し切って投げてしまうという「おおきく振りかぶって」は、ほとんど「ひぐちアサ物語り」の様相を呈する)。


恐らくひぐちアサという人はデッサンという概念がまったくない(例えばこうの史代には、少なくともデッサンという概念が存在する)が、その事を頓着している様子がない。画力と言うことに関しては、事実上デビューからあまり向上していない(ここに「ヤサシイワタシ」を絵でなく台詞で描いてしまった事が反映しているだろう)。スポーツマンガというジャンルで身体(正確には身体の“動き”)が描けないというのは致命傷の筈なのだが、この作家は、こういった事すら対象の微分化で乗り切っていく。これが手法として成立しているのは、高校野球が(僕のような興味のないものには驚きなのだが)分析的なモチーフだった、ということが上げられるだろう。


一球を投げる、それを打つ、守る、といったプレーの全てに関わる情報(そこには応援団の形式や「ためいき」までが影響を与える)が網羅され、一度精緻に分解されている。そしてそこから、シンプルではあるものの考えられた絵と台詞で再構成がなされ、緊張感が途切れることなく持続させられる。こういった状況では、あまり上手くなく、密度が高くない絵が、むしろポジティブな効果を与える。あまりに細分化された描写に高密度な絵がついていると、確実に息苦しさが発生するだろうが、ひぐち氏の、適度にゆるい絵と白い背景が、「おおきく振りかぶって」では絶妙な風通しを発揮して、10代の少年達が繰り広げるにはあまりにファンタジックな知的分析ゲームとしての高校野球に、気持ちの良さを与えているのではないか。


また、このマンガの分析的姿勢は、男性同性愛マンガというジャンルと決定的なリンクを見せている。そのようなマンガの世界では、元ネタとなる物語りのキャラクターのほんのわずかな仕種や視線の交換が織り成す関係性の展開が重要なファクターとしてあるが、「おおきく振りかぶって」の男子高校生たちが見せる、野球というアイテムを通しての微細なやりとり、ボールを間に挟んだ間接的な感情と感覚の「キャッチボール」は、あきらかにホモセクシャルな幻想と平行線を描いている。緻密であれば有る程生々しさに触れず、夢のような終わらない夏を感じさせるのは、恐らくひぐちアサ氏に内在する感覚に基づいているのではないかという予感がある。


これがもし揺らぎを見せるとすれば「女性」を話しの主軸に加えたときで、そのような目論みがあることは、このマンガの準備稿となった「基本のキホン」に無駄にエロティックな女子がいることに伺えるが、性にかんしては現状おおよそ無菌となっているこの作品に、どのようにセックスが導入されるかは興味深い。あまりに描く気が感じられない「女子」にくらべると「母親」が相応に丁寧に描かれている事は特筆すべきで、ひぐち氏のキャリアを考えれば性は「家族」にからむ形で出てくるのかもしれないが、しかし、本当にそこまで描くつもりなのか?


正直、明らかに破綻しているというか、このペースと密度で高校生活の3年間を描いたら、いったいどのくらいのボリュームになるのか想像もできない。創設したばかりの1年生10人しかいない野球部の4ヶ月で7巻なのだ。ここに後輩が入り、恋愛が発生したら物語は累乗で肥大する。ましてや家族なんぞ描こうとしたら三橋でなくても鼻血が出るだろう(しかし、そのための準備は着々と進行しているらしいことは、そこここで伺える)。どこかでエンターテイメントとしてばっさり簡略化がされるのかもしれないが、そういった場面でこそこのマンガの真価が問われるかもしれない。ここは編集者の判断力も重大だろうが、とりあえず待ちにまった7巻で、まだ試合が決着がついてない事に半泣きになった。早急に8巻の出版を希望する。