昨年末にまんが「げんしけん」の最終巻がでてしばらく経ったのだけど、この作品について何か書こうと思いながらこんな時期になってしまった。雑誌連載の終了から数えれば一年だ(僕は単行本でしか読んでいなかったけど)。このマンガについて書こうと思えば、焦点があたるのは主人公の笹原ではなく脇役の斑目だと思うのだが、そこには固有の語りにくさがある。


人が一人で社会と向きあうのは相当に苛酷だし、そこにはなんらかの「中間集団」(この言葉は上山和樹氏(id:ueyamakzk)のblogで知った言葉だ)が必要になるだろう。それは例えば家族、友人、恋人であり、職場や学校、あるいはネット上の仮想の繋がりかもしれない。いずれにせよ、人は中間集団というステップ(それを共有された幻想・夢と言ってもいいけれど)を踏まえなければ世界に対面できるものではない。極端な言い方をすれば、人が生きていくということは、どのような他者との「中間集団」すなわち「誰かと共有された幻想」を築くかという点に集約されていく。


このような「誰かと共有された幻想」で特権化されやすいのが恋愛で、この近代的な制度(症状)の成立は柄谷行人の「近代日本文学の起原」の一部に詳しいけれど、いずれにせよ(異性間)恋愛を経過することこそが大人として世間に承認される儀式であるという単純かつ強固な枠組みは、怪しまれながらも存続している。「げんしけん」の作者・木尾士目は、今までの経歴からすればこのような恋愛主義の作家と言われるだろうし、その評価はある程度は正しい(「四年生」「五年生」などは、そのような「共有された幻想」としての恋愛に生じた裂け目のディティールを描きながら、しかし最終的には調和的な安定へと収束していく)。


げんしけん」も、簡単にまとめてしまえば、ヌルいおたくである主人公が、現実の恋愛を経過して大人になるという、ステロタイプな構造の物語りでしかない。しかし、なおそこに新鮮さがあるとすれば、従来の異性間恋愛からおちこぼれがちなヌルいおたく達と、恋愛強者としての女性のコンフリクトをコミカルに定着させながら、主軸と平行して脇役・斑目の“もうひとつの物語り”において、恋愛とは違う「友愛」の風景を描いている点だ。このような友愛のつくり出す一種のユートピア漫画が「げんしけん」という作品で、恋愛描写の手腕を評価されていた木尾士目氏が、その繊細な心理の掘り下げによって『恋愛を通り越したもの』を提示しえたところが面白さに繋がっている。


おたくであることを隠してきた主人公・笹原は大学入学と同時に現代視覚文化研究会という、作品製作や発表に縁の無いヌルいおたく=恋愛弱者のサークルに入るが、そこに笹原と同期で入会した高坂の恋人・春日部咲は、非おたくの恋愛強者として描かれる。この春日部咲とヌルいおたく達の作るギャップが、前半のこの漫画のエンジンになっている。おたくであることを社会に対して卑下していた笹原は、このサークルに溶け込みながら(すなわち、中間集団としてステップにしながら)やがて自分の趣味を同人誌等に出力していくようになり、更に下級生と現実の恋愛も通過しながら文字どおり「卒業」していくというもので、丁寧な描きが物語りの質を獲得している(ことに、作品内で「漫画内漫画」を展開させ、その絵柄を本編と切り替えながらも要所で本編とオーバーラップさせる手腕は見事だ)とはいえ、この本筋は凡庸といえば凡庸だ。


しかし、9巻ある単行本の半ばあたりから、「げんしけん」で描かれる人間関係の最重要ポイントは、主人公より更にヌルいおたく=恋愛弱者である先輩・斑目の、春日部咲に対する実らぬ片思いに、静かに、かつ明瞭に移動している。事実、主人公の恋愛成就は最終巻一つ手前の8巻で終了しており、エピソードとしての真のクライマックスは最終巻での斑目-春日部間の心理描写にある(もちろん、主人公笹原が後輩に告白して恋愛関係が成立してそれでオワリ、ではなく、つき合い始めてから「後」の摩擦を描く、というところにも作者の狙いはあったわけだけど)。言ってしまえば、春日部咲との微妙な関係を積み重ねてきた斑目が、恋愛至上主義によってその微妙な関係を壊してしまいそうになる、その危うさがギリギリのところで回避されて、友愛という(恋愛とは違った)「新たな夢」が開示され、そしてそのような夢の苗床としての中間集団「げんしけん」が(恋愛主義をふくみながら)なお、恋愛それ自体より大きく貴重なものとして示される。


この、恋愛弱者であるが故に恋愛至上主義に陥ってしまっている斑目の感情を受けとめつつ、彼との「友愛」を保持しようとする咲の(ある意味エゴイスティックな残酷さを含めた)描きの繊細さは、最終巻で皆が成田山に初詣に出向いた時、斑目と(恋愛感情というよりは甘えとして)極めて微妙な「揺れ」を刹那に持った咲二人の、以下のようなやりとりにあらわれる。

(一人はぐれていた斑目が、皆で集まっていた居酒屋からトイレに行くため出てきた咲を見つけて)

斑目:あっ
   春日部さん?

 咲:ん?

斑目:−ていうかうわ!え?この辺みんな飲み屋?
   こんな広場あったのか…

(酔って倒れこむ咲)
斑目の横顔)
斑目、咲に思わず手をのばす)

(咲を抱え込む斑目

 咲:……
   ……

斑目:え?何!?

 咲:おしっこ

斑目:……
   ……

(トイレ前で待つ斑目

 咲:…あれ?
   待っててくれたの?ありがと
   つーかあれ?
   そーかむしろキモイんだよね
   そーだよね

斑目:は?
   …いや違ーよ
   春日部さんいねーと
   どこの飲み屋か
   分かんねーだろ

 咲:そんなん
   すぐそこだよ
   見りゃすぐだよ

斑目:…ま
   そうだろう
   けどさ

斑目:…さっきみたいに
   倒れちゃ
   マズイでしょーが
   いろいろと

 咲:だいじょーぶ
   倒れないって
   さっきのだって
   ちょっと
   フラついただけで
   倒れないよ

斑目:…ま
   そんならいいんデスケド!

 咲:そーだよ
   いーんだよ

(先導する咲の背中を見つめる斑目

 咲:そこ

 咲:ん?

斑目:…ホントだ
           「げんしけん」9巻P49-53

ここで斑目が言う「どこの飲み屋か/分かんねーだろ」の「飲み屋」とは、もちろん二人の帰るべき場所=心の場としてのげんしけんのことだ。「どこの『飲み屋』か」を「どこが『二人の帰るべき場所』か」と読み替えてみると、彼らが細やかな会話と共に道行く「二人の居場所」への(ほんの一瞬見失われた)思いと、お互いへの深い感情、そしてその齟齬がクリアに浮上する。この後、この漫画の事実上の最終話「告白」で斑目が咲への感情の吐露を限界点で思いとどまった姿を見て、ふいに涙をこぼしながら「ありがとね」という咲は、意識的であれ無意識的であれ、斑目との間に成立した(そして、それを育んだサークルに維持されていた)「友愛」が守られたことに感謝し、その夢が緩やかに終息してゆくことに対して「お疲れ」と言っていると読んでいい。この二人の有り様こそ「げんしけん」という漫画のコンセプトで、恐らくは作者もこのキャラクターの自立的展開は予想範囲外だったと思える。


4年の学生生活を4年の連載で描き切るという、リアルタイム進行への強いこだわりや、漫画内漫画との絵柄の使い分け、台詞に頼らず主に視線や仕種、構図やコマわりまで利用した感情描写など、およそ現在の漫画の中でも最高度に洗練されているのではないかと思える語り口調は、時に心理的すぎるし、この作家の基礎にある恋愛偏重が酷く見えることもなくはない。ことに違和感を覚えるのは主役・笹原を大人にするために、いわば構造的に要請された下級生のトラウマとその克服というドラマで、これがあまりに都合良く展開されていて腹がたつ。こういう「都合」だけで「過去の心の傷」を捏造するようなテクニックはストーリー構築の手法として最悪だと思うし、実際、そのあまりの御都合主義の結果として、おたくの主人公にとっての「他者」であるべきだった下級生は、作者の都合にとりこまれ(話しの展開以上に)絵柄の上においてまったく「他者性」を欠き、最終話においては完全に「漫画内漫画」だったはずの「おたくに愛好される美少女キャラ」に変貌してしまっている。


こういった点に瑕疵があるものの、というかだからこそ「作者の都合」におさまらず、思わず描かれてしまった斑目-咲のやりとりは、驚く程いきいきと見え「げんしけん」の基調音をなしている。木尾士目の特徴として「女性の情動(エゴ)」を、男性向け漫画の枠内ではっきり打ち出すという点があるが、そういう意味では大野という女子コスプレーヤーなどもよく出来ていた。が、とにかくこの漫画のヒロインは春日部咲であることだけは確定している。前半にこの春日部咲をおたく共同体にひきこむ為に、彼女に失火をおこさせその罪悪感を利用する、といったあたりにも、木尾士目という作家の限界が見えているが、そういったプロセスを経た上で「おたくに染まらなかった」春日部咲という登場人物がこの漫画を支えたのであって、ほとんど「げんしけん」の可能性は春日部咲一人に集中している。9巻のおまけ漫画で斑目が咲が唯一「萌えキャラ」でないことを指摘しているが、故に春日部咲は真のヒロインなのだ。


咲の恋人・高坂がほとんど当人を含めた誰よりも斑目の気持ちに最初に気付き(失火を起こした咲を慰めて「僕らが咲ちゃんをいじめるのは/みんな咲ちゃんが好きだからだよ」と言うシーンがあるが、咲に意図的に悪口を言っていじめていたのは斑目一人であり、ここも当然「僕らが」「みんな」は「斑目が」と読み替えられる)、その上で高坂-斑目間に摩擦が発生せず、無言の「友愛」が成り立っている点も含めて、やはり「げんしけん」はよく出来たユートピア漫画=理想的中間集団のありようを描いた漫画で、いくつか納得できない点をかかえているにせよ、一方的な妄想を展開させるだけの「おたくの内輪話」にはないリアリティを獲得した作品だったと思う。どうでもいいが、9巻のカバーをとった本体に描かれた全員集合カットに初代会長がいないのは、あのショット自体が初代会長=げんしけん(という集団を立ち上げた人物)の視点だ、ということになるのだろうか。