国立新美術館で「20世紀美術探検」を見てきた。この美術館には初めて行ったのだけど、多分学芸員がなんとか頑張っていて、しかし彼等にはどうともならない美術館の大枠が、建物も中身もハリボテに見せているという印象だ。これが「国立」の「新」世紀の「美術館」の状況なのかと思うと、悲しい貧乏くささを感じる。一切所蔵品を持たず基本的に既存の各美術団体の展覧会場となる(都美術館の代替だ)国立新美術館なのだから、オープン記念というならごく普通に日展の特別展とかやればいいのに、なんでまたいろんな所からいろんな作品群を引張ってきて、微妙に焦点のしぼりきれていない展覧会で開館を飾らなければいけないのだろう。この美術館が本来作られた目的をそのまんま打ち出すことが、何か都合に合わない理由でもあるのだろうか?もちろん、より一般性の高い企画をすることは、それだけを取り上げればとくに悪いことではないのだけど、どこかこの美術館が作られた権力関係が隠されているような印象を受ける。とりあえず新美術館本来の目的とは違う展覧会で着飾っているところがハリボテっぽい。


次に、その着飾り方が、急ごしらえの間に合わせに見える。「20世紀美術探検」に関して言えば、別に日本国中の(一部海外も含む)美術館から所蔵品を借り出してきて、それをずらずら展示してしまうこと自体が、積極的な悪だとは言わない。地方の美術館にあるマスターの作品や微妙に知られていない作家の作品が東京で見られることはそれなりに意義があるし、国立近代美術館の中で日頃流してしまうような作品に改めて目をやる機会ができるのも否定しなければならない事ではないだろう。なんと言ってもモランディが2点展示されていることは個人的には有り難かったし(内一点は海外から)、過去東京都現代美術館で流されていたタトーリンの第3インターナショナル記念塔のCG再現映像に再会できたのは嬉しかった(欲を言えば以前同時に流れていたコルビジェソビエト・パレスの再現映像も再度見たかった)。ポーラ美術館のセザンヌが、一番最初に特権的に展示してあるのも納得がいく。しかし、このような、各美術館の既存のコレクションの再利用による展覧会というのは、果たして「国立」の「新」世紀の「美術館」のオープニング記念でやるべき事なのだろうか?


地方の美術館や、独立法人化で首の回らない美術館の「工夫」として、最近既存コレクションのリサイクル企画というのはちらほら目にするし、これはこれで(バブリーにゴッホとかを数十億円で買い込んで来たりするよりは)理解もできるし、良い事だとも思う。縦割りではなく、日本中の美術館が有機的に連合して、お互いのコレクションを相互に貸し借りできて良いコンセプトの展覧会ができればそれにこしたこともない。しかし、仮にも「国立」の「新美術館」が、いきなりこのような企画でスタートを切るというのは、むしろ本当に苦しい中小・地方の美術館のおかぶを奪うことになりはなりはしないか。誰かが「これだけ集めてくるから、なんとか体裁を整えよう」と投げてよこした企画の展覧会が「20世紀美術探検」なのではないか、という見方もできる。


どうも全体に、「美術」にも「作品」にも愛情というものが見えない。別に国立新美術館だけの話ではなく、今、日本で一番美術および美術作品をぞんざいに扱っているのは、はっきり言って一部の美術館だと思う。まったく美術とは無関係な力学だけで作品が右に左に適当に扱われている。「美術館は美術作品に愛情を持て」なんて事を、一応自分を画家だと自己規定している者がわざわざ言わなければならないというのはどうにもやりきれないが(後生大事に既存の作品を抱え込んでいる美術館に対して異義申し立てをするのが近代的な意味での画家というものだ)、こんなアタリマエの事を言う声が聞こえないので、反動的だろうが気恥ずかしかろうが言わないわけにいかなくなる。たくさんの作品が全て「芸術」なわけがないだろうが、質が低いものであっても一定限度の品格で扱った上で「これは我々の規定する芸術の水準に届いていない」とジャッジメントするのが美術館、というもので、最初から何かの道具のように作品をいじくり回し、誰かの「都合」に合わせてあげることが美術館の仕事では断じて無い。


ハリボテというなら黒川紀章氏の作った建物自体が構造的に言ってハリボテだ。正面ファサードの、うねるような薄い皮膜が作る内とも外ともつかない曖昧な場所が、過去の黒川作品の自己模倣というよりは、どこかの誰かを思い出すというのは置いておく(こういうところは建築に関わる人間が当然突っ込むだろう)。この既視感のある大空間が、見事に展示室本体と無関係に存在し舞台セットの書き割りみたいになっている。平面プランを見れば一目瞭然なのだけど、要するに各美術団体の発表ごとに有象無象の作品が出し入れされる本体はごく即物的な立方体で、展示室も天上に適当なグリッド状をなしてレールが走り、壁面に埋込まれたパーティションが可動壁として展示ごとに空間をしきるような、なんというか、巨大な公民館のような多目的性と効率だけが考えられた退屈なものだ。これだけ「単に歩かされている」気にさせられる美術館というのも、柳澤孝彦氏の東京都現代美術館以来だと思う。要は味気のないインターナショナル・スタイルの汎用の箱に、とってつけたように機能とも目的とも無関係な、シャボンの泡のような皮がカマキリの卵みたいにくっついて目くらまししているのが国立新美術館という建物で、これなら旧軍の使用していた、本当に即物的な軍事施設を耐震補強でもして「再利用」したほうが、遥かに建築的に魅力的なものになっただろう。旧施設のごく一部を食べ残しのケーキみたいに切り離してとってあるが、これまたかえってより貧乏くさい。


この「20世紀美術探検」で唯一の可能性を示しているのは、最初にも書いたが恐らく第3部における学芸員の仕事だ。とりあえず1部・2部で20世紀におけるものと人のかかわり合いを考えなおし、3部で今の作家によって21世紀につなげる、というのは若干「こじつけ」の感がなくもないが、それなりに通して見れるだけのプランに仕上がっている。全体に作品が多すぎて目配りが足らず、カタログの出来が「とりあえず突っ込みました」的な感じになっているのを責めてもせんない(あのカタログが2000円で売られているあたりに破れかぶれなものを感じる。また、ヴェラ・ヴォルフの、20世紀美術における工業素材の在り方を論じたエッセイは少し面白い)。単純に人手とか、そういうところで手足が縛られていたんだとするなら、やはり問うべきは学芸員に手の届かない部分だろう。とにかく展覧会最後は意欲の見せ所として成り立っていて思わずため息が出る(これがあるから「新美術館」としての体裁が整うわけだ)。これまた各作家の旧作の再構成が多かったり、なんでその作家なのかという人選があったりもするのだけど、少なくとも「20世紀美術探検」のこの部分にはぎりぎりのプライドが感じられた。


飲食施設は利用しなかったが、金曜日はレストランを22時までやっているのは評価できるし、地下には比較的安価なカフェもあるから、まぁあんなものだろうと思う。何度も言うが、美術館付属の飲食施設というのは本当にダメなので、あの場所で不人気にならないくらいの頑張りは見せてほしい(ディナーが軽く6000円を超えるのだから、不味かったらあっという間に閑古鳥だろう)。ショップにいきなり宇宙戦艦ヤマトの模型があったりするのは、何か現代美術におけるオタク文化の文脈を根本的に勘違いしてるとしか思えないのだけど、商売に繋がるならどうでもいい。驚いたことに将来的にこの美術館をアニメなどのオタクコンテンツを文化庁が「アート」として認定するための拠点にしたいらしいが(どんなアクロバティックな魔法を使うのだろう)、だとしたらショップも相応の勉強をしたほうがいい。どうせやるなら「魔理沙は大変なものを盗んでいきました」あたりでもエンドレスで流しておいたほうが気が効いている(「シラナイワ/ソンナ魔法」)。


この美術館がなんだか得体のしれない力関係の綱引きでできたグロテスクなものであることは、巧妙な隠蔽があればあるほど、抜きがたく臭ってくる。むろんそこで見ることができる「作品」は個別に評価されるべきだけど、こういう事を、言うべき人が言っていない気がするのは僕だけだろうか(SPA!福田和也氏が雑駁なケチをつけていたくらいしか知らない)。少なくとも、浅田彰氏が美術館オープン記念の黒川紀章展のイベントのようなもので、こまかいエクスキューズを示しながらも黒川氏とこの建物を「誰が見たって良いという王道」だとし、千住博氏をあの偉大な狩野松栄・永徳のまっとうな後継者のように持ち上げているのは美術的判断として間違っていると思う。