東浩紀北田暁大共著の「東京から考える」を読んだ。この本は読者のプライベートな部分に訴えるようにできている。「年齢も同じで出身大学も同じ」二人が、それぞれ体験して来た東京およびその周辺の土地の記憶を辿りつつ様々な事を語るのだけど、年齢・性別と地域をほぼ共通させているがゆえに二人の個人的感覚の差や条件の細かな差が顕在化する。そこから社会への視点の差をあぶり出していくという手法が一貫されている。結果、読者も、自分は個人的にこうだった/だからこう思う、という感覚を惹起させながらこの対談を読み進めることになる。こういった有り様が、この本の5部において東氏がしつこく強調しているメッセージを過剰に機能させる。あえて強い言い方をすれば、1-4部までの長い前振りが、一種の罠として機能している。


例えば、東氏は子供が生まれ、育児と新しい仕事の環境を作ることを視野にいれて引っ越し先を探しつつこの本を作ったと、序文においていきなり(一般に批評家や社会学者が本を出す時に書かないだろう個人的な事情を)書き付けている。ここにおいてもう、ある種の読者−それは、東氏・北田氏とほぼ世代を同じにするような読者だと思う−は、自分の立ち位置はどこなのかと、暗に問われるのではないか。自分はどんな土地に生まれ/どこには生まれず、どんな学校に行き/どんな学校には行かず、どんな職業につき/どんな職業にはつかず、結婚をし/独身でおり、子供が生まれ/子供を持たず、といった個人的履歴が絶えずこの本を読む過程では意識されてゆく。そういった積み重ねの果てに、東氏はこう言う。

しかし、個人の単位ではなく、社会全体の設計という観点では、人間の生物学的な制約に抵抗しても仕方がないところがある。それは、繰り返しますが、イデオロギーの問題ではないのです。それまでイデオロギーの問題だと言ってしまうと、ソーカル事件のような滑稽な結末になる。人間は動物であり、快楽と暴力に弱く、男女がセックスをして子どもを作る。子どもは女性しか産めず、知能には一定のばらつきがあり、合理的判断に限界がある。これはもうどうしようもないことです。
だから問題は、その条件を認めたうえで、「人間が類として自然に寄り添って生きていくこと」と「人間が個として自然に抵抗して生きていくこと」をどう両立させるのか、ということだと思うんです。
(「東京から考える」p264)

こういう見解に対して、北田氏がいくら細かなエクズキューズを示そうと(というか、示せば示す程)東氏の乱暴な言葉は、賛同者反対者問わず『機能』してしまう。要するに、今現在、このような問題提起がとてもアクチュアルであるかのような感覚に陥るのだ。だが、もちろんこの感覚はほとんど信用できない。多分(僕は歴史家でも学者でもないから多分、と推測するしかないが)、歴史というものが始まって以来、どのような知性が展開していた時・場所であっても、ほとんどの人はそれと無関係に生まれ、生き、産み(産まず)、死んでいっている。「社会全体の設計」などというものが本当に上手く機能した試しなどありはしないだろうし、それは今後も同じだろう(あえて言えば、20世紀のいわゆる社会主義国家のようなものへの批判としては正しいだろうが)。しかし、東氏の以下のような言い方は粗雑なだけではない、一種の印象操作のようにすら読める。

僕も「すべては脱構築できる」という言説の政治的重要性は認めるんですよ。でもそのうえで、いまは次のフェイズに入っている気がするんですね。(同書P250)

要は、イデオロギーの闘争には、人間が生きて、死んで、殖えていくという端的な生物学的事実−より正確に言えば、その事実から構成される社会的錯誤があって、それがけっこう分厚いんです。多文化主義リベラリズムの作業が限界まで来たいま、その壁こそが問題になりつつある。(同書P252)

いま日本では左翼の人気がないけれど、それも左翼的言説が妙に観念的だからではなのではないか、と思うわけです。(同書P267)

絶妙なタイミングで挿入される「いま」という言葉、これには粗雑というよりは、ある意図が込められているように見える。くり返すが、いつであれどこであれ「社会全体の設計」なんかが考えられている(?)そばで、それらと全く無関係に「人間が生きて、死んで、殖えていくという端的な生物学的事実」は連綿と続いてきたし、そういうもの(デザインと現実のズレ)が孕む諸問題は、最終的に一般化されることなく現場現場で対処されてきた。また、そういったところで溜ってきた滓のようなものが、あるとき社会化して可視的な動きとなることも、延々とくり返されても来た。それはどう考えても「いま」の問題ではなく『ずっと』問題だったのだし、それがことさら「いま」特有の現象であるかのような雰囲気の醸成は、正直言ってやや悪質だとすら思う。


しかし、にも関わらず、僕にはこういう「いま」が、恐らく書籍の叙述のレベルとはほとんど無関係に納得させられてしまう所がある。例えば、僕は1969年にさいたま市で生まれて、高校までは県内におり、八王子市の辺境にあった私立の美術大学を出て結婚し、都内で仕事をしたり埼玉の川口で絵を描いたりしながら(途中大宮から葛飾区へ、さらに川口に転居)、「今」まさに住居やら子どもやらの問題を持っている。そんなのは僕個人のどうでもいい勝手な事情だろうが、もしかすると、この本は、最初からこういう効果を狙って書かれたのではないかという疑惑が拭えないのだ。それこそ粗雑に言って、30代という年齢の域内にいる日本人なら、とても多くの割合で、この本が発している「いま」という語が、直接的に自分の「いま」として響いてくるのではないか。


それは、当然東京(近郊)に住んでて結婚してて子どもを持っている人に限らない。日本の30代というのは、どこかでそのような選択(どこに住むのか・どのように生計をたてていくのか・結婚・子どもを考えるのかetc.)をしなければならないというムードを抱えさせられており、そのような選択とは無関係に生きているような人すら、このムードに『あえて』乗らないという選択をしたかのようなベクトルを持たされている。そういう人々にとって、東氏が言う「いま」は、なんかしらの意味合いで『自分のいま』になってしまい、それがこの本ではいつの間にか『社会のいま』に接続されてしまう。その意味では、この本はものすごく30代向け、もっと言えば東氏が、北田氏を媒介とした『同い年』の人々に向ってピンポイントに刊行した本のようにも見えてくる(付け加えれば、東氏の「言説状況への視線ではなくて、もっとベタに興味があるんです。」という発言は、むしろ真逆に感じられる)。


もしかして、これは狙ってやったのではなく、東氏自身が、このような感覚-個人的な「いま」が、もっと大きな社会的「いま」とダイレクトに繋がっているかのような感覚を持っているのだろうか。しかしやはりそこには大きな錯誤がある。東氏は自説に細かな留保と反論を示す北田氏に「自分は学者ではなく批評家だから」というような言い方をする。これはすなわち、体系的な言説に縛られる事のない、もっと現実に密着した場所でものを考えているのだ、という宣言だが、僕の理解の範囲で言えば、「批評家」は、絶えざる現実の波を受けながら自分をその都度更新していくような存在であって、反対に自分の有り様をそのまんま社会に結び付けるような人のことを言うのではない。「東京から考える」という本と、それを読む読者を巻き込むある感覚は、むしろ「自分中心から考える」かのような、とてもきわどいものに見えて来る。


恐らく東氏は、デリダ論のような仕事では社会に届かない、という意識から、生活の実感に基づいた思考をくみたてるという指向を示しているのだろうが、これがリベラリズム批判みたいなものにはなりえながら、それが生活の実感=社会のたんなる現状肯定に見えてしまいもする。とにかく眉につばしていなければいけない本で、しかし嘘だろう、と思いながらそれなりに読み進めてしまえる。つまりジャーナリスティックな水準でよくできた本だと思うし、そういったジャーナリスティックな感覚の冴えが、確かに東浩紀氏がある種「批評」的であることの証明なのかもしれない。