川口メディアセブンでソクーロフエルミタージュ幻想」を見た。ここは市営のDVD上映設備を持つ施設で、立派なプロジェクターとスクリーンが置いてあったのにも驚いたのだけど、席がほぼ満席になってたのにも驚いた。フィルムで見られればもちろんそのほうが良かったけど、家の古いテレビで見るよりはずっといいし、無料というのが凄い。


エルミタージュ美術館の絵画が綺麗に撮られているショットはあるんだろうか」という呑気な興味でいったのだが、90分ワンショットというのはそんな甘いものではなかった。本気で車酔いした。映画についての映画でもありながら、それがそのまま視覚についての映画にもなっているというべきで、普段当たり前に受け入れているモンタージュとかの「編集」がないというのがどんな事かというのと同時に、人の視覚がいかに不自然に構成されて(こういってよければ「編集」されて)いるのかが感じられる。ほとんど“90分ワンショット”ということだけが目的化されているんじゃないかと感じられる映画で、エルミタージュという舞台も、ロシアの歴史というモチーフも、役者も音響もカメラも全てが“90分ワンショット”を成立させる事に向って組織されている。こういう映画が好きか、と言われれば困る。しかし、とりあえず見終わった後にソクーロフってエラい人だなぁ、と感動させられた。


この映画の「90分ワンショット」は、ある架空の人の視点に設定されているから、単なる長回しとは違った、異様な状況を産む。つまり、自分の視覚と映画のカメラの距離が非常にあいまいになってしまい、「映画を見る」という構えが産み出す、無意識のバランサー(映画的三半規管?)が機能不全に陥る。例えば、モンタージュというのは人の知覚ではけしておこらない、映画独自のものだけど、これがあるからこそ、観客は「映画」を客体化し、自分と映画の距離を把握できて、スクリーンで起きていることを対象化できる(そして一度対象化しているからこそ安心してアブソーションできる)。それが、延々ワンショットが続きモンタージュされないと、どこかで自分の視覚と映画が混濁してしまい、それが酔いや目眩に似た感覚を与える。こういうふうに書くと、まるで映画と自分が一体化して、物凄く深く映画に没入できそうに読めるかもしれないが、事態は逆で、延々映画と自分の関係を意識的に調整しつづけなければならなくなり、物語りのようなものは蒸発して、いわゆる一般的な意味での感情移入みたいなものは起きない。


「自分が首を横に回す」のと「映画の画面が横にパンする」のは、まったく違う次元で起きていることだが、この映画ではその次元が接続してしまう。自分は首を横にふっていないのに、しかし画面はそのように振れる、という状況が続くと、もろに即物的に「車酔い」してくる。もちろん普通の映画だってパンとかは当たり前にあるのだけど、それが切り返しやアップとかで「映画化」されるから、パンも「映画化」されていて自分の感覚から切り離せる。それが、延々と進み続けるワンショットだと、どこかで映画と自分がショートしてしまいながら、しかし自分の意思とは無関係に「首が振られ」「角度が変り」「速度が変化し」てしまう。何か脳を乗っ取られたような状況になって、非常に暴力的な映像に感じられてくる。やがて、自分は普段世界を「ワンショット」で見ていないことにも気付く。


視覚というのは、もちろん瞬きとか居眠りとかはあるものの、90分くらいは連続して「ワンショット」であることはありふれている筈だが、そこで入ってくる視覚情報は自動的に補正され取捨選択され、更に「編集」されている。例えば交差点を歩いていて大きな車が横から近付いてきたとき、視覚的には自分の視点から見た車だけが知覚されるが、「イメージ」の上では、その車の(見えないはずの)背後の状況を「構成」してしまい(その材料は過去の経験の記憶だ)、周辺情報まで含めて判断して(道の向いにいるおばさんは、いかにも飛び出そうとしている、etc)、この車が行ったらこの道は横断しても大丈夫、とか判断できる。すなわち、視覚状では「ワンショット」であっても、イメージ上では複数のカメラが連動していて、それが適宜編集されているような状態だろう。


だからこそ人はこの膨大な視覚情報を効率よく処理し(それはすなわち、ほとんど大多数のものを「見ない」ですましていることになるだろう)、時に応じて「見えていないものまで見る」ことができるのだけど、この映画では、このような「編集権」が全面的に奪われる。「エルミタージュ幻想」という映画は「編集なし」とされているけど、事実上、フィルムを繋ぐ、という工程だけがないだけで、極めて精緻なセッティングが「現場編集」みたいに機能しているから(そして音楽や音は相当程度、普通の意味で編集されているだろう。例えば序盤の舞台のオーケストラピットの場面では、明らかに音と映像がずれていて「後載せ」の痕跡がある)、映画によるボディ・スナッチャーが発生していく。


エル・グレコレンブラントが写るが、この映画ではそれを上手く見ることができない。比較的暗い室内にあったり、絵の表面が反射して光っているのを避けるようにカメラが斜からなめたりするからだが、こういった事が妙に生々しいのは、人がエルミタージュでエル・グレコレンブラントを見るならば、必ず同じような動きをするだろうと思わせられるからで、しかもそれがあくまで自分の生理で行われずカメラの生理で進行するから、視覚が乗っ取られながらもずーっとカメラと自分の齟齬を(身体の痛みのように)感じざるをえない。泣きたくなる程マゾヒスティックな体験をさせられる映画で、僕はいかなる意味でもマゾヒストでは無いから、もう一回この映画を、例えば劇場でフィルム上映されるから見に行きたくなるかと言われれば、ちょっとイヤなのだけど、しかし映画というのは、どんなものでもこういった感覚は含まれているものだろう。それが、はっきり示されているのが「エルミタージュ幻想」(この邦題はあんまりよくない)なのではないか。


唯一快楽的だったのが、最後の大舞踏会(あまり踊りが上手く無かった気がする)が終わったあとの、大量の貴族達と一緒に長くながく続く階段を降りて行くシーンで、ここでは奪われた目がさんざん振り回された後、急にカメラが疲労に寄り添うような緩やかな歩みをみせる。そこまでの苦痛が反転するかのような余韻の優しさに浸される感覚で、こういう事をされると「卑怯だなぁ」とおもいながらこのシーンが終わって欲しくないような気になってくる。あの「ソラリス終わり」(僕が勝手に命名した)の、一種の安易さも、この退出シーンの快感のおかげでつい許してしまう。


「こちら(カメラ)が切り替わらない」ので、「相手(モチーフ)を切り替える」事になるため、エルミタージュ宮殿という“建物の持つ分節”が正面に出て来る。すなわち扉が開けば時代が変化し、角を曲がれば新たな登場人物がおり、階段を登れば状況が変化する。さらにいくと、画面を横切ったりするものがあればそれが何かの「切り替え」になりうるし、カメラが一度「天井」や「壁」にむけて振られ、再び元に戻ったときが、前と同じ状況を写しているとは限らない。なまじ「カメラが切り替わらない」が故に、ほとんどそれ以外の全てがあやふやになる。固定されているのはエルミタージュとカメラを結ぶ軸で、その間にあるものは固定されない(カメラと同伴するフランスの外交官も、最後は離れて行く)。そしてその軸が延々伸縮しながら進行してゆくのが「エルミタージュ幻想」という映画だ。映画において「階段を登り降りする」とか、「扉をあける」とか、「人が横切る」とか、「何かに接近して画面が覆われる」ということが、いったいどのような機能を果たすかが写っている映画で、ほとんど「映画の学校」みたいな作品になっているように思う。