東京国立博物館で行われているレオナルドの「受胎告知」の展覧会に行ってきた。僕はこの絵について昨年ウフィッツィで見た時、「最初から完成させることだけが目的だったとしか思えない」と書いた(参考:id:eyck:20060308)。はっきり言ってしまえば、あまり面白い絵だとは思わなかったのだが、今回改めて見てみて、印象はやや複雑になった。この絵はけして「つまらない絵」ではない。かなりの程度面白い。そして、そのように「普通に面白い」絵など描きはしないレオナルドの作品群の中では、この絵がなにか「面白い絵はこうすれば描ける」というメソッドを実践しているだけのように見えるのだ。つまりレオナルドの「受胎告知」は、面白いが故につまらないという、変な絵だ。


具体的に作品を記述してみる。「受胎告知」は1472-73年頃に板に油絵で描かれている。大きさは縦が98cm、横が217cmとなる。画面向って左上から右にかけて、濃緑色の糸杉が4本等間隔に描かれる。右端と右から二番目の糸杉に挟まれて画面中央やや上に遠景となる山がある。この遠景はブルーグレーで山が空や川と溶け込むように描かれている。左端から3本目の糸杉までの間にはいくつかの別の種類の樹木がある。右端の糸杉を縦に半分にした線から画面右辺に向けて褐色の壁面が描かれる。この壁面は屈折し、角にグレーの面がおかれ張られた石を示す。この壁と張石は遠景の山に向って一点透視の遠近法にのっとった集中線を描く。糸杉の下、画面の上下のほぼまん中を縁石を示す帯が左右に伸び、絵を水平に二分する。この構造物と樹木が中景をなす。


画面向って左に大きくひざまずく天使が描かれる。上記の樹木にかかるように羽があり縁石まで下がったところで天使の白っぽい上半身に接続する。その右上、やはり樹木を背景にうつむく天使の横顔がある。左手には百合をもつ。天使の身体は画面左下に向って伸び、下半身は赤の衣装で覆われる。天使の足下、画面を十字に四分割した時の左下の面は緑、褐色、白、青で詳細に草花が描かれる。画面中央やや右下に白いボリュームで書見台が描かれ、その右に下半身に青、下腹部に黄色、上半身にマゼンダの服を纏わされたマリアがいる。マゼンダの上半身の上、褐色の壁面を背景にマリアの鎖骨から首、顔と頭部がある。マリアは青の上着の袖に包まれた右手を書見台に伸ばしている。マリアの足下は明るくフラットな面の床で、画面右端は壁が途切れ、赤と暗い褐色で寝室が描かれている。


この絵を見た時に経験されるのは、一瞬目が泳いでしまう感じだ。明らかに描写的で一目見て何が描かれているかは了解できてしまうにもかかわらず、するりと焦点がずらされ「ピントが合う」と感じられるまでに時間がかかる。原因はこの極端な横長(これだけで視線が拡散される)の画面のあちこちに配される様々な要素の中で、マリアの顔が特権化されず全体の配置の中に埋もれていることにある。言い方を変えればマリアの顔が遅延されることで、観客の欲望が先送りされ行く先を失ってしまう。とりあえず明暗の落差に注目してみる。この絵でコントラストが強いのはマリアの顔というよりは明るいブルーグレーの遠景−濃緑色の中景の樹木−白い天使の重なり合い、および画面下辺に近い書見台とマリアの右足の影だ。あからさまな一点透視の消失点が遠景の山にむかって幾重にも集中線を集めていることから考えれば、視線はどうしても遠景の山、中景の樹木、そこに重なる天使、近景の書見台と流れる。もちろん、実際の個々の観客の、この絵の内部を見る順序が常にそうだ、ということではない。たとえどこをどのような順序で見たとしても、いわば事後的にこのような「部分の強度差が導く階層」が意識上構成されてしまうのだ。


再度マリアの顔、というよりは頭部を見てみると、顔面は相応に明るいが、その周囲を包む髪の毛が後のレオナルドの重要な技法となるスマフートに近い効果を上げ、背後の褐色の壁面となだらかなグラデーションを形成している。この絵は空気遠近法の導入で名高いが、簡単に言って近景のマリアの顔の周囲は髪の毛の存在によって光が拡散しかすかにソフトフォーカスがかけられたような「ぼやけ」を見せる。中景の樹木と遠景の風景の接線の方が、遥かに強いエッジ/段差を作っており、理論的には顛倒している。また、明暗の落差では樹木/背景同様の強さを書見台との間にもつマリアの下半身が、10代半ばとされている少女とは思えないほど量感豊かにどっしりと表現されているのと対象的に、頭部はややデッサンの狂いを感じさせるほどに小さく造作されている。相対的に頭部の存在感が弱い。もともと主役が天使とマリアに二分されやすい受胎告知図という主題とあいまって、結果的にマリア(の顔)は遠景の山や中景の樹木、あるいは天使、旧約聖書のある書見台と下半身よりも「遅れて」観客の意識に昇ってくる。複製図像などではあきらかにこの「欠点」をフォローするために顔の明度を上げている場合さえある(東京国立博物館の照明もやや演出過剰だと感じる)。


後の作品において、色彩を徐々に放擲してしまうレオナルドだが、この「受胎告知」では彩度の高い絵の具が使われている。この色彩の配置においてもマリアの遅延が図られる。塗りの厚みを含めて強い赤が画面左の天使の下半身と、画面右辺の寝室に使われており、マリアの上半身の赤を特権化させず観客の視線を左右に分散させる。このことは「受胎告知」に期待される欲望をそらす効果を産む。初期ルネサンスが終了し、既に中世の世界観が崩れた時代での「受胎告知」とはマリアへ欲望を満たすための装置として期待されていたはずだ。しかし、このレオナルドの「受胎告知」においては、その観客の欲望はすぐにはかなえられず、かなり後まで先延ばしされる。重ねて言えば、神を意識させる山−自然の樹木−天使−イエスがいるマリアの下半身とその神秘的出来事が起きた象徴としての寝室といった、視線の回遊の最後にようやく、マリアその人のものである「顔」がゆっくり浮上する。恐らくこの受胎告知図は当時の市民たちに感心されこそすれ、彼等の潜在的欲望を満たす事はなかっただろう。そして、まさにその欲望の欠落を埋めるように、やがて愛らしいマリアを堂々と中心にすえ、観客の視線を十全に受け止めるラファエロの聖母子像が登場してきたと言っていい。


とりあえずはレオナルドの「受胎告知」においては、そのように遅延されたマリアが遠景の山と近似していく=消失点の山から始まった視線/欲望の円環が一周して閉じるのだ、といった読みを示しうるかもしれない。あるいは鮮やかな黄色で暗示された、マリアの胎内のイエスこそこの絵の主役なのだと言ってもいいかもしれない。だがそのような読み込みにはたいした意味はない。とにかく「受胎告知」という絵は、言ってみればこのように「読めて」しまう絵なのだ。その読みの内容が妥当かどうかというのはどうでもいい。いかにも読み込みを誘う構造が組まれ、そして多少気の効いたつもりでいる観客であれば、上記程度の「読み」はいくらでも可能だろう。そして、そういった絵は、レオナルドでなくても描けるのだ。


マリアやイエスが「遅延して」浮かぶ絵画ということなら、レオナルドに先駆けてサンタ・クローチェ教会バロンチェッリ祭壇画でジオットが実現している(参考:id:eyck:20060209)。遠近法によって生まれた「深さ」を精神性に転化するような受胎告知図ならフラ・アンジェリコが描いている(参考:id:eyck:20060113)。視線を誘導しつつ画面を複雑化させる絵ならフィリッポ・リッピがいたし(参考:id:eyck:20060117)数学的緻密さであればピエロ・デッラ・フランチェスカがいた。細部の描写による「読み込ませる絵画」であれば兄弟子のボッティチェルリが完成させていく途上にいた。マザッチオが空間表現を革新し、ポッライオーロは人物の解剖デッサンを終えていた。いわばルネッサンス絵画はほとんど「終わっていた」。


レオナルドがその実質的なデビュー時においてたたされていたのは、いわばすべてが終わった状態、出発点において長い死を生きるしかないような状況だ。遠近法が終わり、解剖学的人物表現が終わり、絵画構造の複雑化や視線誘導が終わっていた。あとは器用にそれを完成させ精密化させる作業があるばかりだ。レオナルドにとって、観客の期待に添うような「迫真的」受胎告知図を描くことはもちろん、その期待をそらし、徹底して観客の視線/欲望を脱臼させ分散化させて最終的に抽象化してしまうことさえ、デビュー作であっさりとこなせてしまう程度のものでしかなかった。レオナルドの「受胎告知」は、恐ろしく良くできていて、そしてそれだけの絵だ。その「それだけ」な感じが、丹念に革をなめしたような表面の単調さに繋がっている。


これはジオットを、マザッチオを、フラ・アンジェリコを、フィリッポ・リッピを十全に学んだ成果がまじめに定着された、卒業制作の絵だ。これ以降、レオナルドはこういった「良く出来た絵」「普通に面白い絵」、要するに「知的に読める絵」など描かなかった。「絶対に読めない絵」、ほとんど宇宙そのものみたいな高密度に圧縮された絵だけがレオナルドの興味をひくものになるだろう。レオナルドの「受胎告知」は、だから、面白いが故につまらない。絵画の死が宣告された=初期ルネサンスの多様な豊かさが閉じてしまったという宣言のような絵であり、なおかつ、ここから何が問えるのかを問うために、可能なことは全て余すことなく完成させ、「これはこれで終了」と告知させるための作品だったのではないか。暴言を承知で言ってしまえば、これはいわば最初期のポスト・モダン絵画なのだ。


レオナルド・ダ・ヴィンチ天才の実像