Bunkamuraで「モディリアニと妻ジャンヌの物語」展を見た。2月に見た埼玉県立近代美術館でのモディリアニの彫刻と絵画がちょっと気になったので(参考:id:eyck:20070227)、まとめて彼の作品が展観できたのはありがたかった。ただ、これはないものねだりというか、展示のコンセプトの話だからしかたがないのだけど、どうしたって内妻ジャンヌの作品との関係性が強調されていて、単純にモディリアニの作品を見ようと思うとかなり展示が見づらい(逆を言えばこの夫婦の相互関係は、かなり主催者側のねらい通りに見せられていたと思う)。とりあえずモディリアニに関しては、けして傑作ぞろいという展示ではなかったが、この画家の面白みみたいなものは何点か確認できた。


モディリアニが絵画においてやろうとしていたのは、現場的に言えば主にボリューム、というものと平面性の接点を探ることだと感じられる。彫刻から絵画に転向したという経歴はかなり重視されるべきだろう。そのキワキワの部分を、モディリアニは独自の線を形成することで解決しようとしていて、やや強引なその手法は、なんとか納まる時もあれば上手くいかないこともあり、作品の質が短い期間であってもかなりばらけている。1919年の「ジャンヌ・エビュテルの肖像」は明瞭にボッティチェルリからの引用だが、アフリカ彫刻の影響まで含めれば、ボッティチェルリピカソの「アビニョンの娘たち」(1907年)の中点を形成するようなポイントをなしているのがモディリアニではないだろうか。このボッティチェルリ-ピカソ-モディリアニという特殊な星座のような布置をイメージできただけでも、この展覧会を見る甲斐がある。


例えば1917年の画商ズボロフスキー夫人の肖像画などを見ると、斜めから見た人物のボリュームのイリュージョンが絵画平面上で破綻する時、その破綻は「奥」への回り込み、絵画では捕えることができない“背面”と“表面”の接点で露呈するわけだが、モディリアニはそこを独自の線で押さえ込む。この、時として暴力的な線(接線)が必然的に孕む事になる破綻こそが絵画的空間、というもので、いわばこういった創造的破綻を極端に全面展開していたのがピカソの「アビニョンの娘たち」だろう。そして、この“背面”と“表面”の危なさを西洋絵画史上意識的に「線」で切り開いたのがボッティチェルリだと見れば(ちなみにレオナルドは、ここをめちゃくちゃに微分化し複雑化した結果スマフートに辿り着いた事は以前書いた。参考:id:eyck:20060217)、あのモディリアニ独特の、縦に引き延ばされたフォルムが産まれたのは、いわば必然だったとも言える。モディリアニがどの程度ピカソを意識していたかは僕は無知なのだが、例え彼が「アビニョンの娘たち」を知っていたにせよ知らなかったにせよ、既に総合的キュビズムに突入していたピカソの、一歩手前のところに踏み止まって思考していたのがモディリアニなのかもしれない。


とはいえ、ほぼ同時代のピカソの止まらないばく進にくらべると明瞭に残るモディリアニの通俗性というのは、かならずしも「売る」事を考えざるを得なかったという状況によるだけとは思えない。もう少し、この人の資質に根ざしたものだと思う。上述の「ジャンヌ・エビュテルの肖像」の肖像とかは、ボッティチェルリの影響がはっきりしているから面白い、というよりは、ほとんどボッティチェルリのイラストレーションに近くなってしまっていると思うし、時にあからさまにマンガのようになる(要するにパターンの組み合わせになる)のも、「売れる」ことを考えたからなのだろうか。


いずれにせよ、このことを単純に否定的にいいたくないのは、そういった通俗性が、たとえば色彩などの面においてポジティブに働くこともあったであろうからで、どんな画家でもそうだが、結局自らの条件に基づいて制作をするしかないに決まっている(モディリアニが最初から成功を納めていたとしたら、はたしてあのような質が獲得できたかは疑問ですらある)。僕が一番好きなモディリアニは女性ヌードを描いたタブローなのだが、これは今回見た中にはなかった。モディリアニのヌードには、ボリュームと平面性のせめぎ合いがとても充実して見られるものがあって、これがモディリアニ独特の通俗性と絡まることで強いエロティシズム(というよりエロ)が発生する。あのたっぷりとした身体に見られる絵の具の質は独特で、しかもそこにあの奇妙な顔が接続されているのが、もの凄く変だ。


ジャンヌに関しては、こういう言い方があんまりなのは承知で言えば、こと作品に関して言えば、恐らくモディリアニの影響は悪い形でしか働いていないと思う。明らかに、二人が出会う前に描かれた静物画のほうが明解な構造を持っていて、色彩感覚も単純ながら冴えている。ことと次第によったら、もう少し良い絵描きになっていたのではないだろうか。しかし、モディリアニの影響を受けるようになってから、彼女はモディリアニの悪しき表面的様式だけを手癖のように反復している。最悪なのが色彩、というより絵の具の扱いの混乱で、精神的な行き詰まりもあるかもしれないが、亡くなる前の作品などはあまりに退行していて見ていられない。絵を描くもの同士が夫婦でいるというのは、どう考えてみても難しいだろうと思うのだけど、これは他のメディアよりも際立っているように思うのは気のせいだろうか(建築家には、ユニット派というか、男女のパートナーで共同作業をする人がとても多かったりする)。


●モディリアニと妻ジャンヌの物語