損保ジャパン美術館でペルジーノの展覧会を見て来た。保存状態を含めた精度の高い作品は1点しかないため、展覧会としては充実しているとは言えない。しかし、それでも日本でペルジーノが見られるのは貴重な機会だし、全面的に本人の手が入っているわけではない工房の作品であっても、ペルジーノの特質はいくつか確認できたように思う。僕はフィレンツェとローマでペルジーノをいくつか見ているが、今回の展観と併せて思うのは、この画家は、最良の作品においては弟子のラファエロより遥かに面白い作家だということで、単に「ラファエロの師」としてしか取り上げられないのは明らかに不当だし、むしろラファエロから切り離した独立した画家として見た方がずっと良く見えると思う。


ラファエロより評価が低いことを前提に、ペルジーノの“問題点”として同一モチーフの反復や類型性などがあげられるが、これらの特質は単に工房による量産システムが産み出した欠点ではない。そもそも有力な画家が工房を持ち作品を量産することが当然だった時代には、そのような生産構造からくる特性は当然の事であって、なおかつ有能な工房ほどこういった弱点は隠蔽すべきものだった(まさにそこで腕が問われた)だろう。ペルジーノはむしろこの状況を増幅し強調している。実際、ペルジーノほど画家として高い評価をえながらこの「特性」が目立つ画家も、僕が知る限りいない(あえて言えばバロック期のルーベンスがいるが、ルーベンスは確かに経済原則に従って量産体制を整えたことが明白な画家だ)。どうかんがえてもペルジーノは同一モチーフの反復やその再構成といった事をポジティブに捉え、意図的にその効果を利用していたのであり、メランコリックな通俗性に流れた部分のあるラファエロにない、ペルジーノ独自の価値がここにこそある。


ペルジーノの魅力は幾何的な作品構造及び同一モチーフのコピーとその組み合わせがもたらす、一種の複数性/連鎖性にある。硬質な絵肌とシャープなエッジが、まるで1枚のタブローがバラバラに分解されそうになる、コラージュ作品のような感覚も発生させる。要はラファエロに比べてずっと複雑な面白さを持った画家がペルジーノだし、ラファエロが後期のマニエリスティックな作風で見せ始める異様さも、初期にペルジーノのコピーからキャリアをスタートさせ、最終的な段階で再びペルジーノに回帰しただけなのではないかとすら見える。今回の展示では、そのペルジーノのもっとも中核的な特徴が見られるのは1496-98年頃に板にテンペラで描かれた「慰めの聖母」だけだ(注目されるのが飾りフレームが取り外され、板の側面が露出した状態で展示されていることで、作品の物質的構造が露になっている。作品保護という意味では不安にも思うが、観客としては興味深い)。それでも、隣に並べられた、やや質感の劣る作品「正義の信心会の織旗」との関係性は良く了解できる。


「慰めの聖母」は中央に安定した三角型を描いて幼子イエスを抱いた聖母が座っており、アーチを描く上部に左右対称に天使が浮遊している。この天使の完全に近いシンメトリー性と、そのくっきりとした輪郭が、いわば“自然さ”を産み出さず抽象的な図像性を発揮するのだが、ここが“自然さ”で愛好されるラファエロより低評価とされる所以かもしれない。しかし、例えば隣に並ぶ「正義の信心会の織旗」の上部の天使が、あからさまに「慰めの聖母」の反復であることを見る時、ペルジーノの作品は、いわば1枚で完結しない、他の作品への連続性-伝播性を帯びることがわかる。このようなことは、例えば今回見ることのできない、ウフィッツィにある「聖母子と聖人たち」の聖セバスティアヌスと、工房作品として展示されている聖セバスティアヌス、そしてルーブルにある独立した聖セバスティアヌス像が同時にイメージされる時に、より明解になる。


フィレンツェペルージャ、ローマと限定された場所でしか活動せず、単なる効率性から同一モチーフの反復を行えば、たちまち市場の評価に響くことがはっきりしている当時の状況で、なおむしろそれと分かるようにコピーを強調し、なおかつ当時最高の画家ともされたペルジーノは、この『今ここの作品』と『ここでないどこかの作品』が同期してしまうイリュージョンに自覚的だったと考えた方が自然だろう。更に言えば、僕が知っている範囲で、もっとも素晴らしいと感じるペルジーノ作品は「ペトロへの鍵の貸与」なのだが、ここで感覚される透徹した数理性は、隙無く人工的な作図をグリッド状に舗装された大地として図示し、中央正面に後にレオナルドも思考した集中式建築を置き左右にローマ式の凱旋門を置いている構図から発生する。言ってみれば作品の左右が鏡像関係にあるだけでなく、画面そのものが鏡面となり画面の奥にも、また観客が実際にいる空間にも、理論的・観念的な「無限に連続する奥行き」というものを立ち上げていく装置になっている。そしてもちろん、この作品は「マリアの婚礼」と繋がっていくし、ラファエロがそのキャリアの第一歩を、この「マリアの婚礼」の忠実なコピーから始めたのも、師の作品に内在した無限延長/複数展開という論理に従った故だろう。


ピエロ・デッラ・フランチェスカとの関係が推測されるのは当然だし、フィレンツェの画家、フィリッポ・リッピやマザッチオも十分に関係づけられる。また、「慰めの聖母」の、周囲を囲む小さな聖人や天使と、不釣り合いに大きい中央の聖母がもたらす魚眼的クローズ・アップの効果は、ジオットーの「荘厳の聖母」を連想させる(参考:id:eyck:20060119)。ことにこのジオットーとの類似は印象的で、当然遠近法における人物の空間内での比例関係に関しては、「マリアの婚礼」の通り当時最も洗練された理解と技法を持っていたことは明らかなのにもかかわらず、あえて建築的なスケール感を持たされている「慰めの聖母」のマリア像を見るにつけ、ペルジーノが徹頭徹尾意識的な画家であったことを伺わせる。


改めて今回の展覧会の作品に即して言えば、幾何学的性質に関してはあまり質のよくない「カナの婚礼」、あるいは工房作品とされている「ジョヴァンニ・アントニオ・ペトラツィオ・ダ・リエーティの娘の潰瘍を治す聖ベルナルディーノ」にも構図において若干は感受できる。僕のようにラファエロよりずっと良い画家だ、と思っている者にはこの展覧会は貴重であっても不満足だし、もっと良品を積極的に日本で紹介してくれればと思うが、古典作品を空輸する恐さもあるし(レオナルドの受胎告知の空輸程の準備と安全対策を求めるのは流石に無理だろう)、とりあえずはこれで納得すべきなのだろう。


ちなみに、まったく関係ないが、損保ジャパンのビルは末広がりの特徴的な形態をしていて、この面白い空間のある地上ではビルのガラス面を利用してストリートダンサー達が練習をしている。そして、どうやら損保ジャパンは、条件つきながらこのことを許容しているようだ。僕はこういったものにまったく縁がないけれど、入退場の際ちらりと見た範囲ではこの双方の関係に好感を持った。現実に関わる人々がどう考えているかは知らないが、ペルジーノを高層ビルの上層で紹介し、余剰空間ではストリートカルチャーをやんわり許容する、というのは、きょうびの企業の在り方としては相当ノーブルな態度なのではないか(「商売」にしたがる企業はいるだろうが、こういう「軒先きを貸す」ような態度は、ルネサンス期のメディチ家をイメージさせる)。


●ペルジーノ展