東京芸術大学の陳列館で行われている「《写真》見えるもの/見えないもの」展が面白かった。美術館で開催中の「パリへ」展とコレクション展を見に行く事が主目的だったのだが、格としては上の美術館での展示物、ことに「パリへ」展での作品が、いくつかの例外もあるといは言え全体に「日本の近代化過程での西洋の受容」という社会的な文脈抜きでは成り立たない作品が多かったのに比べて、むしろ現在の状況論としての側面も大きいはずの陳列館の《写真》展の方が、作品単独で鑑賞に耐えるものの比率(点数、ではない)が高く、また展覧会としてのコンセプトもしっかりしていた。


だが、この《写真》展自体にも逆説がある。つまり、最もアクチュアルに見えてくるのが、現役の(多くは若い)作家達に混ざって展示されている中山岩太、榎倉康二、大辻清司という3人の物故作家の作品だという点だ。そういう意味ではカタログに収録されている光田由里氏の「メタ写真と私性-中山岩太 榎倉康二 大辻清司 高松次郎」という簡易な概論は、この展覧会の重要なポイントを示唆している。なぜ彼等の写真が現在のリアリティを獲得しているのかと言えば、まずは光田氏の言う通りそれがメタ写真、つまり作家各自が自らのよって立つメディウムそれ自体への猜疑と検証を行っていること、そしてそのことが同時に、作品内容の緊張感を誘発し、単なるイメージを写し込むのではなく、反-イメージ(反-写真)としての質を確保しているからだ。


イメージとは、とりあえずここでは、主に対象それ自体ではなく、対象に対して持たれている「共通感覚」の再現だと言っておく。むろん、世界にはイメージしか存在せず、「対象それ自体」という観念自体が一種のイメージでしかないという言い方が可能なのかもしれないが、しかしそのような「共通感覚」が齟齬を起し、エラーしてしまう場面こそむしろ日常的なのではないかという言い方も可能な筈だ(光田氏はそれを私性、という言葉で示そうとしているのかもしれないが、しかしこの言葉は危険だと思う)。とりあえず、イメージに抗するようなこのようなイメージは、イメージを生産してしまうメディウム自体への検証抜きでは成り立たない。


「パリへ」展で見られる、明治から大正期の絵画も、どこかで反-絵画的な側面を持ってしまう。すなわち、日本という場所で、日本人が油絵の具で絵画を制作するということの矛盾・無理があからさまになっているのがこの頃の「洋画」成立過程だ。端的に言って油絵で日本および日本人を描く破綻が山本芳翠の「浦島図」の面白さなのだし、そこをフランスの折衷的アカデミズムに従属した黒田清輝が器用に糊塗してしまったことと対照的に、いわば北方絵画=経験主義的視覚の逐次的描写に近い感覚へ可能性を開いていたのがコレクション展で見られた高橋由一だと言っていい。この当時の日本絵画は、どうしたって油絵の具というメディウムをチェックしながら展開してしまう。しかし、黒田清輝的な、表面的な技芸でメディウムの破綻を隠蔽するスムーズなイメージの共有こそが主流となって以降(日本で裸体画を定着させようとする黒田の政治的手腕が面白いとはいえ、これはもう社会学的興味でしかない)、美術館側の絵画は時代を下るごとに水準が悪化してゆく(もちろん合間に散発的に岡本太郎のような「爆発」があるとしても)。そして現代の作家の痴呆性を露呈して、「パリへ」展は終了している。


対して陳列館の《写真》展では、写真というメディウムへの批評的視点が、ある程度連続して現在まで展開しているように感じさせてくれる。中山岩太のフォト・コラージュが、例えば瑛九のフォトデッサン(今回展示されているわけではない)と比べて抵抗感があるのは、瑛九が光そのものを一種の筆として使用し、その痕跡で「イメージ」を描こうとしたのにくらべ、中山はあくまで印画紙という物質が光の作用を受けて生成するマテリアル性に注目し、なおかつそれに耽溺することなく、「写真」として改めて捉え直している(光田氏が指摘するとおり、印画紙のコラージュをそのまま出すのではなく、改めて写真にしている)という複雑さによっている。榎倉康二の作品は、画家・美術家が写真を手掛ける困難があり、イメージについてのイメージ、というイメージに陥っている感はどうしてもある。つまり、境界性や断面性という榎倉の観念の挿し絵のように見えてしまう作品が多いのだけど、とはいえその作品にある洞察があることは否定できないだろう。大辻清司は相対的に写真におけるイメージを重視した作家かもしれないが、「写真についての写真」が、見ごたえ(というよりは手ごたえ、と言いたくなるが)のある水準の高い写真作品になっていることが魅力だろう。


現役の作家の作品のいくつかが若干同時代の観客と共有できそうな「共通感覚」に依存している面は気になるが、他の作品はそのようなイメージを利用しながら、そのイメージを操作しようと試みている。横湯久美氏の、同一のモチーフを対称の視点から撮影し並列させる作品は、個別的な「今/ここ」という感覚が、しかし僅かな移動でぶれ、複数性を持ちながら、時間の経過とともに消え去っていくような感覚を上手く定着している。中里和人氏は、2つのカーブする道を対称に並べることで、一見無限に円環するような運動感覚を成り立たせる。しかしその間の「段差」が、繋がるようなイメージをなりたたせるようになる直前で、しかしそれがけして連結されない、「行く」ことと「来る」ことの非対称性を際立たせるような作品になっている。以前ここでエントリを書いたことのある石田裕豊氏の作品が見られたこと(参考:id:eyck:20050203)はラッキーで、相変わらずの技術的な高さが確認できた。佐野陽一氏の作品も以前見た事があるのだが、今回の展示での、大幅な像のブレ・ボケは、言ってみれば像を「よく見ることができるように固定する」写真、というものの機能を反対側から問うもので、「見えるもの/見えないもの」という展覧会の主旨によく合っている。「よく見えない」という事の生々しさを追っているような感触があった。


《写真》展を一定の質に保っているのは、その空間に対する展示の配慮で、歴史ある美しい建物が良くいかされていた。美術館の「パリへ」展と陳列館の《写真》展は、各々まったく異なったコンセプトの展覧会であり、その2つの展覧会を、単に建物が隣り合っているというだけでショートさせてしまうのはもちろん「間違い」なのだが、にも関わらず、そのような「間違い」が起きてしまうのも展覧会というものの恐さ/面白さだ。様々な留保が可能だとはいえ、展覧会としては美術館側は全体に負けがこんでいた。さすがにそれを「写真の勝利」とは言う気にならないが、少なくともここでは、陳列館の側にこそ明らかに批評性というものが偏在していたことは確かだろう。とりあえず、今芸大の陳列館を見ないことは、「パリへ」展を見のがすより遥かに損だ。もっとも、コレクション展は相応に貴重なものがあるし、可能なら全部見られるのが一番だとは思う。美術館の方の展示は陳列館より1週間早く終了することに注意。


●《写真》見えるもの/見えないもの


●パリへム洋画家たち百年の夢


●芸大コレクション展